にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

空言図書館

 風は穏やかとみえて、捲る頁が波で押し戻される事もなく快適だった。頭の上の海面は、そのままでは眩しすぎる光を半分跳ね返し、半分通してくれるから、調光も抜群で、こんな時はあと五冊、六冊と読んでしまいたい。ほとんど最良の環境。ほとんどと言ったのは、繰り返し話しかけてくる声があったからだ。
「ねえなんで息出来るの」
「どこから来たの」
「何読んでるの」
 人魚の少女が言う。泳ぐときに私のよく知るそれに近しい形に変わるから、人魚だと思った。足ひれをはためかせてせわしなく泳ぎ、はたと立ち止まる時だけ人と同じように二本の足になる。いつも小さな泡を纏っていて、淡く光って見えるのは白い肌のせいだろうか。
「いつからいるの」
「いつまでいるの」
 最初の質問に答えてしまったから、言葉がわかると知られてしまった。珍しかったのだろう、以降、ずっとこの調子だ。だんだんと返答も「あぁ」とか「うん」とか適当になっているにも関わらず、どうして飽きないのか問う声が絶えない。
 読み終えた本を返す。素晴らしい小説だった。既に数冊、味わったが、ここにある物語はどれもとても良い。地上で読んだどんな本よりも、真に迫って見えたし、まるで、私だけのために書かれたかのように感じた。誰が書いたのとも知れない。誰かの書庫だろうか。どこかの船のように見えるが、まるで本を積み過ぎた為に沈んだかのように、海底に棚を根付かせていた。
 私はここが夢の中だと知っている。いかに時間の圧縮された世界だとしても、起きるまで、あと幾らも無いと思われた。太陽が窓掛けと私のまぶたを破り光を運ぶまで、自身の寝息に気づき、ふと目覚めてしまうまで、この物語を味わいつくしたかった。
「へんなの」
 くるくると周囲を回りながら、あちこちから声を出すので、没頭が苦手な人間なら気が散ってしょうがないだろう。こちらとしても本の虫歴は長いので、生半可ではどうという事もないが、ゆらめく太陽をまるごと遮る形で頭上を泳がれるのには辟易した。
「すこし落ち着きなさい」
 顔を上げずに言う。水中の発声にもすっかり慣れて今ではしゃべっても空気がぶくぶくと言わなくなった。初めて自分から声をかけたので、声の主は驚いたのか一時止まり、今度は一層、調子良さそうにくるくるやりはじめた。全く言う事を聞かない、見た目の通り子供なのだろう。
「こんどはこれ読んでみて!」
 人魚の子供はひとつ、版の大きな本を持ってきた。先ほどまで読んでいたものとは明らかに毛色の違う、手書きの本だ。薄くて文字も大きい、絵本のような装丁だが絵は無かった。ぱらぱらとめくるとかわいいお姫様が貝をだっこした所、らっこと間違われたと書いてあった。それ以外は特に展開しなかったけれどさいごにめでたしとあった。めでたかった箇所はどこだろう。
「おもしろくなかった」
 数秒で読み終えて返す。
「うそ!」
 愕然とした顔で少女が動きを止める。そのままへなへなと地面に崩れおちて丸まってしまった。もしかしたら今の本は彼女が書いたものだったのかもしれない。静かになり、これはいい機会が来たと思った私は再び自分が持ってきた本に視線を落とした。
 信じられない、見る目ない、字が読めないのか、とぶつぶつ言っているがまだ先ほどまでより格段に環境は良い。しばらく捲っていると、その人を呪うような声がふと聞こえなくなっている事に気がついた。うっかり、顔をあげて姿を探すと、こちらを恨めしそうに見ている目とかち合った。
「言っておくけど、ここにある本なんて、全部うそなんだからね」
 拗ねたような口調だ。
「小説はおおかた、そういうものだろう」
「そういうことじゃない」
「ここが夢の中だという話なら、それもわかっているさ」
「そういうことじゃないってば」
 不満そうに、体を起こした少女の目は、しかしどこか真剣に何かを伝えてしているようにも見て取れる。だから、少しだけ本から、耳に意識を分けた。
「でも、“ほんとうにあったこと”を書いた小説もある」
 これまでより遙かに理知的な響きを帯びて、はっきりと少女が言う。彼方の魚影が何かをきっかけに一斉に引き返す。この水中で初めて、肌に熱を感じた。
「いましがた、全部うそと言ったじゃないか」
 それには答えず、本棚のほうへ少女がひらひらと泳ぐ。私は腰をあげてそれに続く。比較的新しいと見える背表紙が並ぶ棚の前へと誘導されたようである。足を泳ぎやすい形に変えた少女は手慣れた様子で、その中からいくつか本を取り出した。
「めでたしめでたしが、ないの」
 受け取ったどの表紙にも作者の名前は見当たらない。題名に見覚えも無い。
「みて」
 小さな両手で紙の端を抱えて、えいと頁を捲るので、水流が前髪を揺らしてくすぐったい。確かに少女の言う通り、どの本も後半から白紙が続いて未完に見えた。とはいえ、ぶつ切りで終わっている感もないので、どちらかというと、あえて読み手が結末に自由な裁量を持たせているように思える。となれば、彼女の不満は大団円ではない事だろうか。
「おねがい、続きを書いて」
 子供の人魚はいつの間にか耳元で手を合わせている。
「ここは空言図書館。ほんとうである必要なんてどこにもないの」

***

 人魚の読書文化は、私からすれば受け入れがたいものだった。頁は見たいところから自由に見る。途中からだろうが、結末からだろうが、人魚は誰も気にしない。ただし、必ず誰かが幸せになるところまで読むのが決まりだという。作者が丹精込めて並べた文字の順番を尊重するのが云々、積み重ねた出来事があってようやく最後が云々、と言う私の言葉には皆そろって首をかしげるくせに、あの本の誰彼が幸せになった所、よかったね、と言い合っては、皆一様に頷きわいわいとやる。大事なのはどこかに待ち構えている幸福というわけだ。
 それは海底の時間の流れにも起因しているようだ。この空言図書館の周囲は海流だけでなく時間の流れもぶつかり合っていて、必ずしも時計は右に回らないとの事だった。いや、それどころか連続しない事もあるらしく、畢竟、本も同様、表紙から裏表紙まで時系列に並んでいるとは考えなくなったようである。
「何冊もあるの」
「以前は無かったのよ」
「本当に困っているの」
 しぶしぶ、人魚の読書規則に従って適当な場所から頁を捲る。こちらの反応を期待して輝く小さな目たちを前に、やや不本意ながら、確かに、普段とは違う頭の使い方をしているよう感ぜられ、発見する所もあった。
 飛ぶ船の落ちる話、獅子と鼠の話、道の線の話、人の少ない知らない島の話。おそらく、このあたりが、人魚好みの結末になっていない物語だろう。いくつか見受けられたが、私自身には座りよく幕を引いているように見えた。何度目かもわからないが、もう一度だけ説得を試みる。
「物語は、何もかも幸せに終わるわけじゃない。こういう綴り方も、余韻があって味わいがあるものだ。それに、書いた人というのは、自分が一番良いと思ったところで筆を置くものさ。作文の苦手な私が足したんじゃあ、誰一人喜ぶ結果になどなるものか」
「それでもよ! お願いね!」
 どうしても納得して貰えないのだった。
 
***

 いくつか、わかった事もある。ここの子供たち――子供だと思うのだが、彼女たちは本当に一日中、本を読んでいるのだ。内容に満足すると大声で伝え回るので、取り合いになる事もある。皆の好みに違いこそあれ、やはり聞いた通り幸福な結末がお気に入りのようで、人気の本は順番を待つ者がずらりと並んでいた。
 しかし、このようにして取り回していると、そのうち読まれない本が出来てくる。読まれないうちはまだ良いのだが――続きを書いてと言っているのはこの類いだ。
「続きねぇ」
 本の余白を眺めながらペンをコツコツとやっても当然文字は出てこない。生まれてこの方読む専門で、書いた事などないのだから当然だ。
 夢で間違いないと思うが覚める気配が無いので、半ばやぶれかぶれで請け負ってしまったのが不味かった。というのも、彼女たちは決して気まぐれで頼んだわけでは無かったのである。
「お、終われない・・・・・・」
 ちょうど、一人がわかりやすい台詞と仕草でへなへなと倒れ込んだ。彼女の手元にある本がその原因だろう。表紙が心なしか黒ずんで見える。そのままぴくぴくとしたまま起き上がらない一人を、どこからか現れた四人ほどが運んでいく。口元がまだ動いていて、終われない、と繰り返しているように見えた。
「急いでね! 病棟はもう満杯なんだから」
 言いながら一人の子が、せっかく置いたペンを無理矢理に持たせてくる。私は頭を抱えるしかない。
 この海底においては、読者は物語に順路を持たない。だから、続きを書く、とは言っても、望ましい内容であれば、どこに書き加えても良いはずだ。つまり、表紙から裏表紙まで、どこかに救いがあればいいのだ。
 けれど、どこにも救いが見つからない本を読んでしまった時、人魚はその本を読み終える機会を失ってしまう。読み続けて、疲れ果て、先ほどの一人のように倒れ込んでしまう者が後を絶たないという。
 病棟は満員だった。ベッドも最初は珊瑚と化石で丁寧に作っていたが、いまでは重い砂を集めて数を揃えているらしい。このままでは看病する者より寝込む者が多くなるのは時間の問題に見える。
 それでも、本を読む事を止める事は出来ないのだった。読者は生まれ続けるのだった。もしかしたら、誰かには合わなくても、自分だけにはしっくり来る一冊かもしれない――。注意を促してもそれは決して止まらなかった。だから、彼女たちは、書物を変えるしかないと結論付けたのだ。
 私の周りには丸まった紙がいくつも波風に舞っていた。実を言うと、既に何度となく書いては消し、破りしている。少しずつ、納得のいくものに近づいている気がするし、遠のいている気もする。およそ、作品ができあがる感触というものを知らないから、自分のしている事の正誤もわからない。せめて、自分は面白く読めるよう気を遣うと、今度は読んでばかりで字が進まない。これほど一生懸命ひねりだした一文が読めば刹那に終わるという事が急に不平等に思えてくる。
 最初はいいからそろそろ覚めてくれと思っていたが、今はもう書き上がるまでこの夢に居たいと願っている事に気がついた。
『その渦は楽園を守り、隔絶した。知られざる底には、小さな住人たちが水面の果てを見上げては、永遠に訪れない、訪れる事の出来ない空を想っていた。空想は、すべて渦が吸い上げて消えたと思っていたけれど、ある時、船が落ちてきた。境界の遙か上から、流れに逆らい、空から言葉を運んできた。虚構に人魚が夢を見た――』
 駄目だ駄目だ、気取りすぎている。それに、長いだけだ。分かりやすくない言葉の魅力に、逆らわなくてはいけない。読者は完全に想定できていて、おそらく子供なのだから。取材はしなくとも、耳元で騒ぐたくさんの声がある。面白かった本や、生まれてからのこと、昨日と予定と明日あったこと。何でも教えてくれる。私の知らない事を分担して持っているかのように、何でも知っている子たちだ。それが、小説のように私の心を躍らせる。
 いつの間にか私の周りには人魚が集まっていた。間違った、とつぶやくと担いだ消し草で紙をこすってくれる。肩になんども体当たりして、こりをほぐしてくれる子もいる。泡玉に入った塩加減のちょうど良い澄んだ茶を持ってきて、飲みやすいように管まで用意してくれる。いくらかくすぐったい思いもあるし、次の一文をじいっと見られるのは緊張もしたけれど、彼女たちは素直に感嘆したり、喜んだりするので、俄然、筆も乗ってきた。
 書いた本を横に積み上げていくと、係りの数人が、病棟の患者へ回し読みさせた。読み終えて快復した人魚たちは、また私をもてなす側に回るものだから、周囲の少女はどんどん増えた。相当書いたと思うが、これもとお願いされた本はまだ山になってある。やり甲斐があるというものだし、少しずつやっていこう、そう思った矢先だった。
 一番鶏の声が海底にこだました。滑稽で結構と聞こえた。何を言うか、と顔をあげ焦る。朝が来る。
 信じたくないが、やはりこれは夢だったのだ。私は目が覚め、誰かになり、違う世界を過ごす。しかし、病棟の子たちどうだ。私が覚めて、起き上がれるのだろうか。物語を書き終えられない物語が一冊、この図書館に生まれるのかもしれない。それを読んで、また伏す者が現れるのかもしれない。
「もういなくなっちゃう?」
「本、もう書けない?」
 あちこちで目を見合わせている。心配そうな顔をしている。不安にならなくても良い。きっと書き上げてみせる。しかし、時間はあまりにも少ないようだ。悩んだが、決めた。私は人魚たちに、まだ書き終えていないものを開いて綺麗に並べるように指示した。皆で綺麗に水流を作りながら、瞬く間に本が整列していく。そこに急いで書き込んでいく。
「君たちに、言っておきたい事がある」
 人魚たちが全体、息を合わせたかのようにぴたりと止まった。
「本が終われないと言ったね。でもそれっていうのは、本当は良い事なのだ。本を読んだ後は、体が温かくなって、水や風なんて無くても浮いているような気持ちになるだろう。それは、本が終わったからではなく、本を閉じた後も、本がずっと自分の中で続いているからなのだ。だから、終われない事を恐れないで欲しい。今は空白で見えないが、そこには必ず無限の続きがあり、本を閉じようが、目を閉じようが、いつまでも続いていく」
 静かに聞いてくれる。お別れが近いともうわかっているのだ。海面から届く光が白さを増していく。
「確かに、悲しい物語は多い。私にはそれも本だと納得出来るけれど、君たちにとって得意じゃない結末もあるだろう。けれど自身の中で終わっていない物語なら、どんな大逆転でもいいから、余白に希望を持てばいいんだ。生きている本を、生きている者が楽しく読む方法がそれだ」
 体の端々から気泡が沸き立つ。消える前に、あと数冊に。
「いいかい。ここにある、全ての本に魔法をかけた。なんでもいい。どんどん読みなさい。物語が悲しくても、塞ぎ込む必要なんてどこにもない。本を閉じて、終われないと感じても、次を読みなさい。嘘でも本当でも、体験しなさい」
 最後の一冊を書き終えると、私は消えた。
「空言図書館でまた会おう」
 私があった場所で、ペンがゆっくりと回っている。光の筋が、立ち上る泡を、名残を少しずつ失わせてながら水に混じっては白んでいく。自らのあるべき棚へ戻ろうと、本が泳ぎ出す。海を吹く風がページを捲ると、決まってどの本の最後にも、急いだせいで歪んだ文字で「つづく」と大きく書いてある。