にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

鬱の王国 -Preview-

 夏の断末魔みたいな暑さだった。赤みが掛かった日差しは砂臭く、どんな条件で手を打ったのか、あれほど鳴いた蝉もいつの間にか黙っていた。
 人の気配を求めて歩いていたはずが、雲ばかり数えてしまう。
 絶望的だろう――ここは特に。

 マスクを取ると、風がある事に気づく。匂いは相変わらずだ。砂、埃、油。必要無いなら、吸い込まずに済ませたいものたち。何度かの地震で傾いた電柱は、地上近くに街頭を持ち運び、滅びた街を下から照らし出す。空への救難信号のように、ビルの陰から粘り強く光っている。

 それを見つけたわけでは無いだろうが、頭上遥か遠くに円盤があった。あの未確認飛行物体は犯人では無いとされている。あくまでこれは人災で、宇宙人災ではない、とキャスターは言う。

 その昔、UFOは馬車だった。自動車が発明されると、それは車の形を取った。飛行の技術が確立されてからは、浮き得ると見えそうなあらゆるフォルムで空に現れ、人の想像力と共に成長してきた。その進化は止まってしまったのだろうか。それとも、本来の姿に、我々の目がやっと追いついたのだろうか。アダムスキー氏は、今日もよく知るアダムスキー氏のまま我々を見下ろしている。

 いくつかコンタクトの案はある。敵対するものではない、とは、ミステリーサークルを解読したと言い張る者の言葉だった。敵ならばもう攻撃しているはずだ、という事実を根拠とする考えもあるが、果たしてどうだろう、と彼女は思う。多くの人にとって何故か納得できているらしい「今の惨事は宇宙人によるものではない」という前提が、どうしても腑に落ちない者も現に居るのだ。

 上を睨みつけた彼女の目には太陽が焼き付き、赤の丸がどこを見てもしつこく追いかけてきた。その動きはまるでかつて見た円盤のそれだったものだから、ふと思う。
 今もなお、人は想像力と共に成長する幻影を、瞼の裏に映る太陽の名残を追い続けているだけなんじゃないか?
 答えてくれる有識者は、科学者は、医者は、友達は、今世界にどれほど生きているのだろう。間違いないのは、生きていたとして、その者もまた「死にたい」と思いながら地表で息をしているという事だ。

***

 いかにして摂取したかはもはや重要では無い。とにかく、その毒は物質的にも性格的にも、神経伝達物質と非常に似た構造をしていた。反応は神経細胞から出でた途端、シナプス間のわずかな隙間で瞬間に始まり、終わる。たちの悪い事にだ。実際その瞬間の変容は研究をより困難なものにしていた。それらがドパミン神経末端の受容体にたどり着く頃には、致死に充分な形状となっていたが、原因も、対策も、出来ないまま人類は随分と減った。
 テロでも、病気でも、同じだ。このまま人口が零に向かうとして、誰が止められるだろう? 勿論、誰もが止めたいと願うだろう。しかし、毒によって変わったこの世界において、種の全体を考える余力――敢えて余力と表現するならば――そいつを持っているヒトが残っているとは思えなかった。そう、自分も含めてだ。
 未知の毒により、セロトニン受容体の阻害を予め投薬によって行っていた人間だけが生き残った。そのような薬を日常的に用いている患者だけが。
 地球は、うつ病患者だけが生き残った。

***

  よくやってくれているとは思うが、生放送は止める方針だ。ニュースを読むキャスターの声色が、悲壮感が、伝わりすぎる。自殺を目の当たりにする機会は確かに減っていたが、それは人間の、症状の悪い者の総数が更に減っているからであって、明るい知らせにはなり得なかった。
 お茶の間のテレビに健康的な話題を届ける事はきっと出来るだろう。たとえば嘘でも良いわけだ。これまでのように、道化をやれば良い。批判を覚悟で、愚かと言われるのを覚悟で、見え透いた道化を演じる事で、嘘から真実が出てくるように気持ちが上向く事がある。安っぽいと言われながらも作り続けた意義、放送作家の意地は、実はここにある。
 今はただ時間が欲しい。最初の願いは確か、そんなふうだった。人が癒える時間があれば。衝撃的な情報は不要だ。そう思っていた。空に浮いているあの物体も、その加減がわかって、ああしているのだと、機を見て、全てを被ってくれるのだと。勝手な期待、甘えだ。

 ニュースを集める人も、それを許可する人も、映す人も、読み上げる人だって、全て悲観的に傾いて考えずには居られないのだ。今にも呼吸が止まりそうな青ざめた顔になる前に、静かに静かに事を進めて、傷つく事を互いに慎重に予測して、半歩ずつにじり寄らなくては何か一つ完成させる事も難しい。きっかけも無いまま、人は人と固まらない。

「誰か居るか?」
 基本的に朝、気分が比較的優れていた時だけ、出勤したい者だけがスタジオへ直接来るような具合になっている。いつの間にかなっていた。人に会いたい欲求を好きなタイミングで満たせるという意味では、ここは幸運な場所だった。しかし、今日は特に気配が無い。簡易的なニュースをやろうと思ったが今日は厳しいかと思って仮眠室へ向かうと、揺れた。
 地震ではない。落下の音。この建物の屋上にもオブジェクトがあるが、まさかあれは落ちないだろう。いや、もっと大きなものが遠くで落ちたような響き。たとえば飛行機や、隕石といったような……まさか。
 滅亡がゆっくりと始まった日、生きる事に一度は悲観した者たちが溢れた。状況を覆すでもなく、いつまで経っても、不器用な者たちを、何とか団結させられないかと考えるようになった。
 いつしか丁度良いとさえ思ったUFOの存在は、しかし浮いているだけで何もしてこなくて、大層がっかりしたものだ。
 攻めて来い。ほどよく。都合の良い事を考えた。
 ある種の悪は、台頭して来ない事には排除できない。この悪とは円盤に潜む何者かであり、我々の孤独と寂しさであった。
「君のように、無意識に息が出来る事は、技術なんだよ」
 と妻が言ったのは、事が起こる前だった。その場で笑って、寝室に戻った。お互いに交換した言葉に、必要な音楽が乗っていないかのような感覚。口の端から出た傍から落ちていく意味たち。
 何かが見えるに違いないと思い、妻の薬を飲んだ。
 何も見えなかった。
 頭と手足の先、時折痺れるような感覚と共に、猛烈な眠気がやってきた。
 次に目を開いた時もだ。
 何も見えなかった。

 家の中。なぜか、生き残ったのは、自分だけだった。