にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

可能性の自殺

 すれ違った少女が咳き込んでうずくまった。声をかけるべきか迷っていると、こちらに気づき、逃げるように走り去っていった。口元を押さえ、これ以上、この近辺の空気を吸い込むまいとするように。苦しいだろうに、遠くまで、どうやらそのままで。
 一人になってみると、道はそこに在るべき人を失ったようにもの寂しい雰囲気に変わっている。赤く服を纏っていたと思う。赤くあろうという意思の見える上下。水平に切り揃えられた髪。気にかかる少女だった。この世のすべてを恨むかのような目だと思ったが、私と目が合っていたのだ。恨んでいるとすれば私かもしれない。今は夏と思い出す。背中が少し寒い。
 抗鬱剤を飲む。ひどく眠くなるやつだ。そして自分の目頭を強く押し、備えた。あらゆる音を聞かないようにする。頭上の冷たい芯を心臓まで落とすような、呼吸の動かし方。いくつかコツがあるが、うまく言葉にするのは難しい。これをやると、微睡みの上澄みでだけ、聞きたい言葉が聞けるようになる事を最近知った。医者にも、誰にも話していない。電柱にもたれ掛かるとすぐにその時は来たので、問いかける。
「先ほどの少女は何者か?」
 声は、少しも面白くない本を朗読させられている子供のように、息も勿体ないという様子で伝えてくる。
「明日燃えるはずのものが、既に灰に見える娘だ」
 不思議に思えたのは一瞬で、すぐに理解できた。
 私は明日燃えて、灰になるのだ。それゆえ、舞った粒の煙たくて、少女は咳き込んだのだ。いくらか、「生」とはほど遠い印象のある娘であったし、これほど、腑に落ちる事はない。いっそ、気分は優れたように思えた。
 押し止める必要はないだろう。明日燃える準備をすれば良い。
 未練は無いわけではない。言葉を、選び伝えるべき人も多い。ただ、自分の価値がわからなくなった時、「そうなれば」と願った事が、言い訳のできない罪だった。ほんの少しであれ、死に祈り、自ら死を呼び寄せたのだ。
 大きな意思があって私を裁いたのだとしても、静かに積み重ねた行く末の導かれた運命だとしても、あらゆる人の目や考えから、独立させて孤立させて、何もないところから湧き出た突き詰めて純粋な偶然だとしても、起こった事は等価だ。
 だから、可能性の自殺を求めた。
 私はただ結果を、それが終わってしまう前に、死の直前までに、見たかったのだ。
 生前、なにひとつ残せなかった事を、耐え、見守ってくれた人へ少しだけ返したかった事もある。私が事故死と判定されれば、保険屋はそういった人々に少なくない金額を支払ってくれるはずだ。
 まだ誰も居ない家へ帰ると、吹き抜けの天井に釣られたシーリングファンの電源を三年ぶりに入れた。軋む音は以前より大きくなっている。電球は切れかけて、点いては、消える。消えながら回り、点きながら回る。外の風が強くなり、家が少し揺れる。軋む音もそれに倣う。ぐらつきながら、一定の速度を目指しながらもおぼつかない有様で。支えを失って落ちてくるならば、高さも重さも、私の頭を潰すに充分だろうと思えた。これならば、目覚める前に、事が終わり、私はきちんと燃える事ができる。
 止まりかけては回る。その真下に寝転がって、眺めていた。いくらか時間が経った。窓の外が先に消灯する。羽を時々照らしながら明滅する天井は花火のようだ。眠りが足音を消してやってくる。夢のような景色を見はじめて、そこには自分以外の人がいた。表情が見えそうで見えなくて、でも皆、こっちを見ているような気がして、皆、皆、そんな人数、思い当たる人が居ただろうか、居たのだろう、知らないものばかり見る夢はない、そもそも、夢を見ている間は、生きているのだろうか、わからない、少しだけ夜風の匂いと、軋む音、軋む音が重なり、金属がぶつかり、回る、家の中、回る羽根、花火、静かな足音、窓の外の夜空に、白いまる、雲に隠れて、黒に紛れていく、人の声、思い出す声、同じ声、目の熱い、水、水が床を叩いて、大きな音、床の冷たさ、熱、自分のもの、誰かのもの、遠い声、いつか聞いた声、眠気、消灯。最後に、少しだけ生きたくなった。

***

 血の味が口の中の抗鬱剤を溶かした。ひどく眠くなるやつだ。そして自分の目頭を強く押し、備えた。あらゆる音を聞かないようにする。頭上の冷たい芯を心臓まで落とすような、呼吸の動かし方。いくつかコツがあるが、うまく言葉にするのは難しい。これをやると、微睡みの上澄みでだけ、聞きたい言葉が聞けるようになる。
「私はこのまま眠って、目覚めないのか?」
 夢から醒める方法は知っている。けれど、それが出来るのは夢を見ている時だけだ。
 いかにもつまらないという声色で、子供の声が耳に届く。
「眠りと死とを毎夜絶えず選び続けて今まで来たのだろう」
 不思議に思えたのは一瞬で、すぐに理解できた。眠る前も、後も、どちらだって夢に出来る気がする。
「また選べばよい」
 いくつかの顔が浮かぶ。おそらく、こちらを見ている。表情までは見えない。目を細めてみる事は止めた。舞う灰のせいでは無い事を見せつけるように、見開き、手を伸ばし、不確定を退け、選択をした。赤い少女と、退屈そうな少年に別れを言った。