にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

嘘と青のノア

 ノアの箱船はちょっとだけ遅かった。雲が地に落ち、溢れた水が緑と灰色を等しく流し埋め尽くす中、光の手がすくい上げたのは、種族も分類も適当、特に人間はひどくて、一切を信じない占い師、寝食忘れがちなダンサー、部屋から一度も出たことがない翻訳者、三つ子の赤ん坊、狼に育てられた少女、などなど全員が完全な世間知らずで、世の中を知っているふうな生き物は僕だけだった。問題は、僕もまた、極めて嘘つきな爺さんに育てられ、口伝でしか外を知らないという事だ。
 占い師は遠い未来、人類は再び反映するさまを見た。文明は断絶だ。伝えられる技術は多くない。だが、歴史はかろうじて伝える事ができそうだとわかった。むしろ、伝える事が、箱船に生き残った者の役割であるはずだ。そして他の人間がすべて世界について無知である以上、「歴史家」として船に乗った自分こそが、その役割を担わなくてはいけない。注意深く、真実のみを書き記さなくてはいけない。知りもしない先の事を語る嘘の歴史家は「ノストラ騙す」と呼びひどく糾弾されたものだ、と爺さんがよく話していた。
 まずは明らかにしようと誰かが言った。なぜ滅びたか。ホロビチッチ不連続面のためだと僕は答える。船の舵を取っているのは誰か。鍛冶屋だろう、と僕は答える。いつ、戻れるのか。イッツショータイム、つまり、小時間で戻れるだろうと僕は答える。祖父に叩き込まれた知識をフルに動員する。誰も反応出来ないようだった。知らない事は、恥ではない。無知の知、つまりムチウチの身内こそ恥だという風潮こそ、恥ずべきなのだ。
 お互いの干渉はそれきりで、あとは各々が事実を受け止めたり、現実から逃げたりする事にたっぷりと時間を使っていたように思える。進展と言うべき事もなにもない。僕はそれを書き記す。記す事をする。つまりシースルーである。
 長い沈黙を破ったのは誰かのお腹が鳴った時だ。大音腹鳴。おおおとのはらなりという戦国時代の名将を思い出す。もちろん会ったことは無い。祖父はあるらしかった。当時の飛行機は地球の自転と逆向きに飛ぶ事が許されており、みんな自由に過去に行けたという。
 話が逸れたが、大音腹鳴にして静寂破れる、だ。
 きっかけ、全員が気づいてしまった。飯はどうするんだ。
 メシヤを探せ! 高い場所へ船を漕ぐ。漕げば操れると発見したのは大きい。みんなで樽をばらして、たわんだ木の板で空をかく。水が無くても浮かべるからこの船は優れている。水が届いていない場所が狙い目だ。船頭多くして船山に登る。そこにはまだ、腐っていない食べ物の貯蔵庫があるかもしれない。クサランプールが、あるかもしれない。
 果たして食べ物のありそうな看板が見えた。「やすまず営業中」とある。「やすくてマズいけど、でも頑張って営業中」の略だと皆に説明する。一同は得心した様子であった。マズくても今は食べられれば良いから、構わず船をつけた。
 ダンサーとはそこで別れた。ここでは蛇口を捻ればいくらでも水が出たのだ。もともと「おひねり」で暮らしていたと言っていたから、ちょうど良かったのだろう。船に戻りたくなったらどうする? 水位が上がったらどうする? 心配していたのは狼に育てられた少女たちだ。あらまあ、こりゃまあ、と昔から心配性だったとみえ、確かに、アマラとカマラと名付けられていた。
 蛇口があるのだから、別れに涙は蛇足だと、伝える。さよならは堂々と、王のように。それが船で行く者、バイキングのさだめだ。 
 その後も、占い師は売る物を得て漆になったり、三つ子が百の魂にまで昇華するなどあったが、ここでは割愛する。離ればなれになっても、絆は、愛は決して消えない。割愛はきっとそういう意味だ。
 そして、旅は、書を記す僕と、それを訳す彼女だけのものになった。
 もはや漕ぎ手は四つだけだ。僕たちの四つの手だけだ。だから、たわんだ樽の切れ端はもう握らなかった。波が無くても、在っても、越えてゆける。時折頬を伝ったとしても、それも波だ。
 ダンサーを思い出す。そうしながら僕らは好きに踊る。ゆっくりする。舞ったりする。
 狼の少女を思い出す。占い師の事も。二人は仲が良かった。ウルフりをして占い。月に吠えると未来が見える気がした。
 赤ん坊を思い出す。バーブーと愛らしい声はよく響いた。何度も響いた。その残響が今も耳にある。リバーブだ。魂は百になっても染みて残り響き続ける。
 シースルー中の僕に、ヤクスルー中の彼女が寄り添う。記す書は厚みを帯びて、増え続けて、僕らの手にはいよいよ重くなっていく。船はいつか図書館のようになった。沈む時はブックブックと言うだろう。いくつか、書いていない歴史もある。二人だけの歴史は、秘すと利だから、明かさない。
 遠く遠く先に、本があることを願った。それも、うんと、たくさんあることを。きっと嘘ばかり書かれている。知らないを、初めてを、なんとか生きたからだ。けれど、あなたにとってだけは、本当のように思えたら良い。たとえ沈んでも、この空のように、言葉が、意図せず、青ければ良い。
 船は向かっている。どこかへ、ゆっくりと。だが確実に。青が覆った、かつて楽園だった場所を揺蕩っている。