にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

緊急時のてびき

 空気が薄くなると体が透けるのだっけ? 落ちる飛行機の中でようやく冷静に死を受け入れつつあったのに、自分の手のひらごしに機内パンフレットの「緊急時のてびき」という字が見えるのだからぎょっとする。
 そんなわけないじゃんと笑う妻も点滅していた。当たり前だけれど金属探知機にひっかかった靴も、息で吹き入れて膨らんだベストも服も透けていないし点滅していない。自分の肌と、妻の肌だけがちょっと妙な具合に、存在があやふやになっている。そういうきみも点滅してるぞと教えてやった。ほんとだ。物販カートが放り出され取り放題になっている菓子類を頬張りながら妻が言うが、足をばたばたして一瞥しただけだった。

 幽霊だったら透けているという話を聞く。だからこうなるのは普通、死につつある時分じゃなく死んだ後だろう。普通とは何だ。頭をひねると、骨の鳴る音がした。骨。そういえば血液や内臓や骨も透明になっているという事か。血が噴き出しても絵にならないとすればゾンビ映画にはもう出られない。
 あと五分もすれば飛行機は海でなく大陸に影を落とす事になる。その影が膨らんで地面とくっつく前に自分たちが脱出するのはもう不可能に思えた。親切な事に、進路は変えられないうえ、海へつっこむ事も難しいという機長の声は客席に繰り返し届いていた。今なお壊れた操縦桿やら何やらをいじくり回し生還の道を模索しているのだろうが、誰一人笑顔を見せないキャビンアテンダントの様子からそれが徒労に終始している事は見て取れた。
「往復切符を買って良かったでしょ」
 なぜか得意げに妻が言う。生きているうちに海外旅行に行ってみたい、と言い出したのは彼女だった。曇天の空港で、私は生粋の雨女だが雲の上ならば決して降られる事はない、どうだ格言めいた事を言ったぞ、と胸を張っていたのを思い出す。言ったのもつかの間、これから生涯を終えて雲の上の住人になろうとはさすがに予想していなかった。

 今更かも知れないが人生はこれからだ。結婚して、仕事も悪くない方向を維持出来ている。子供も授かるかもしれないし、親孝行や家族サービスの計画は五万とあるのに、矢先に飛行機が落ちて、しかも透明になるなんて。
 犯人はもう死んでいる。ハイジャックは、血圧に不安がある人間が高い標高でやっていい事ではなかったのだ。暴れ周り、脅し回し、コクピットの重要そうな何らかの装置を破壊しつくしたた挙げ句、発作で息を止めた。
 制服を着た背の高いお姉さんが遠慮がちに言った。
「いちおう、お医者様はいらっしゃいますか」
 飛行機が落ちるとわかったのはその後だ。透明になったのは更にその後という事になる。機内が騒がしかったので明確な境界は思い出せない。犯人の持っていた拳銃は自殺を求める人の手に順に渡り、必ず当たるロシアンルーレットとして五人を殺して床に捨てられた。その後は泣く声とお経と祈る声とが絶えず聞こえてくるが比較的落ち着いた。一人、搭乗用のハッチをスマホで延々と叩いている者がいて、そのリズムが、早くなる自分の心音を確かめるよい指標になった。
 どうやら自分は、やはり死ぬのは怖いようだ。恐怖は、自身に起こる多少の不思議では拭えないもので、透明や、点滅はそれを何者かが教える為に、いや、自分自身が確かめるために起こる儀式なのだと言う気さえした。より薄くなった自分の体と、より間隔の長い点滅になった妻の体は、しかしまだ触れあう事ができた。手を握ると握り返す力がある。なに、とこちらに顔を向けたのは消えたタイミングだったのだろう。再度点灯した時まだ妻は怪訝な顔をして、そして目を凝らすよう眉を動かす。表情から自分が、だいぶ見えにくくなっているのだなとわかる。
 響く音は一切が一定。着々と大きくなる風とエンジンの音が、泣き声を消し、話し声を消し、間に壁をこしらえるように人を分断していく。
 来世を信じているか、それとも夢と信じているのか、と聞いた。同じように死に瀕した時に、今と同じように、手を握りながら。いや、それさえも気のせいで、初めてする問いかもしれない。
「ただ信じているのよ」
 往復切符を買って良かったでしょ、と彼女は言った。行き先が天国なら尚更だ。
 誰かが歌い出す。巨大な空との摩擦に対抗するように。窓の外が赤く映る。白へ変わり、光を増していく。やがて雲を追い越しはじめると、体が少し浮いた。手を握る相手はもう見えない。消灯だろうか。次に点灯する時を待つ時間はあるだろうか。
 指輪が宙に浮いている。お互いの薬指だ。天使の頭についているものに似ていた。