にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

止まる心臓の話

 心臓がもうすぐ止まる事がわかって目が覚めた。
 痛みではなかったと思う。体の中央から指先にかけて、不穏な脈打ちが始まった。夏だったはずだが、目の周りが妙に冷えていて肌寒い。いつまでも黒いので、目を開けていると気がつくのに時間を要す。暗闇に慣れるより早く、赤く明るい丸が視界に現れた。一度目を閉じて、その丸が消えるのを待つ。
 確信する。間もなく自分は死ぬ。動悸が一定でなく感じる。血が巡り方を忘れ好き勝手に衝突しているようだ。知識ではなく本能的な部分で感じる。今の状態が長引くなら呼吸は続けられないだろう。
 音は聞こえているだろうか。ごうごうと耳奥に震えがあるように思う。冷蔵庫の中にいるように、噴き出した汗が急速に冷えていく。虫の声がようやく聞こえ始めた。吸う動作と、吐く動作を確かめ、手足のわずかな痺れを感じながらも、握った布団が音を立てないように押しのける。
 小さな寝息のとても安らかなのを妨げないように静かに身を起こす。もうひとつの呼吸の先を見つめて、考えた。答えが出たとは思わない。けれど、暗闇のまま寝室を出た。
 残された時間は、もうわずかだろうと思われた。もう二度と、私が太陽を見る事は無いだろう。
 遺書くらいは書けるはずだ。パソコンの中に蓄えた私の生きた証というべきものを整理することも出来るだろう。残される事になる、妻への手紙も書く必要がある。愛の話と、しなくてはいけない言い訳や、しておきたい言い訳は多くあった。
 遺言はすぐに書き終えられそうだった。子も、両親も居ない。私が遺したい相手は妻しかいない。まずは文書として効力を持つよう雛形を調べ、書く。調べながら、十秒程度寝てしまったように意識が途切れる事があった。その度にまた目が覚めた事に安堵しながら、どうにかこしらえた。ビニール袋から水が漏れるような音が胸の間から聞こえてくる。気の所為なのかもわからない。耳自体が脈打って煩いからだ。視界を幾度も横切る虫は、全て自分の幻覚だろう。
 次にパソコンを開き「書斎」と名付けたフォルダを開いた。気取った名前だと思うが、これだけが自分に残った矜持だった。様々なソフトと、書き上げたもの、書き上げられなかったもの、物語が数百並んでいる。
 書き上げられなかったものは消去した。例えば自分が死んだ後、そんなものが残っていたとして価値を感じないと思った。価値を感じる自分が居ない時の事を心配するのも妙な感覚だ。
 書き上げたものの中で、未発表のものは、散々悩んだ挙句、三編残して消去した。消す、そのキーをひとつ押すだけだったが、ひどく疲れた。死は近づいたかもしれない。ただ、必要な労力だったと思う。しばらく深呼吸をして落ち着こうとする。結局落ち着くまでの時間が惜しくなり、動悸は放って置いて手を動かした。
 物心がついてから、何千万回とキーボードを叩いて作った文字の並びの大半を、瓦解させた。その名残はもうなく、取り戻すこともできない。紙で残したものはひとつもない。今日まで、私が生み出したといえる、唯一のものたちだった。何も、消さなくても、と自分の一面が問いかける。ただ、死に瀕してより頑固になった自我が、きっぱりとそれを跳ね除けた。
 彼は言う。より胸を張るため、より多くに別れを言わなくてはいけなかったのだと。
 いつもと変わらないはずの本棚も今はよく背表紙の文字まで目に入ってくる。時計の文字盤のかすれたような汚れや、二回に一回秒針の音が違う事も初めて気がついた。集中は一層困難になっていくのに、目に入ったり、耳に入ったりする情報はやけに多く感じる。命が失われつつあるいま、ある限りの経験をしようと体が勝手にもがいているみたいだった。
 ペンと紙を取り出す。足音を消して寝室に戻る。妻が起きる事は望まなかった。あまりにも自分勝手で、我儘は話だ。それを、上手に伝えられるだろうか。
 手紙の書き出しは悩まなかった。二人で決めた、死後会うための合言葉で前置きをした。
 他には。順番もなにもない、思いつくものを先に。時間がいつまであるかわからない。
 こんなタイミングでさよならを言う事になって残念だという事。
 向こう、50年は一緒にいるつもりだった事。
 その頃には若返りの薬も出来ていて、君が飽きるまで、そんな風にいっては悪いか。でも、いつまでも、百年、千年愛すのだと思った。
 死んだ後のことを君に伝える手段は、おそらくまだ無いのだろうね。
 私が死んだ事で、悲しんでくれる事と思う。また、悲しませてしまったか。
 たくさんの人を頼って欲しい。それと、誰かもし優くて気の合う人がいたら、その人にも、頼って。
 私は最初にほんの少しだけ嫉妬して、その後、たくさん安堵すると思う。
 そのためにはここで長々と何か言うよりも、さわやかに去ればいいんだけど、そうすると、怒るでしょう。
 いつも私は君を気遣うふりして、自分の気の弱さを押しつけていたから、もっとこうしたかった、という瞬間ばかり思い出しています。
 今になって尚、本当に勝手でごめん。
 私は今、私のことを君が思い出してくれる事を想像して幸せを感じ、私のことを忘れて幸せになった君を想像して安らかになっている。
 きっとこれから君の心をかき乱す死人になる事が、本当につらいけれど、どうかしっかりと生きて、気が向いたら、思い出すなり、忘れてしまうなり、進んでくれたらと思います。大丈夫、合言葉は、絶対に忘れない。
 これから自分は、怖い顔になってしまうかもしれないし、これも甚だわがままであるけれど、どうしても、君を起こせなかった。
 少し字が読みにくくなってきた。大丈夫、この調子だと、最後まで、苦しくなさそうだ。
 じつは、寝顔をみながらしねればと、いつもおもっていた。
 まいにち見ていたけしきのまま、ねむる君のよこで、おなじように、しずかに。
 きみは、なでるとわらうんだよ、ねむりがあさいのかな。
 ほんとうにねがう。きみ
 しあわせに。
 ありがとう
 たいおん