にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

ステップの歌

 地球の最大円周を通るように線を引いて僕は丸を描いた。裏、表、どちらが内側なのかと悩んでいると、通りすがりの誰かが耳打ちするに、これは丸じゃなくてゼロなんだから、内も外も馬鹿らしいハナシじゃないかという。それもそうか、と思って僕は線を引きなおした。

***

 電源が入っていない限り、エスカレーターは階段に過ぎない。そう考える人も居るだろう。だが実際は全く違う。それが機能としていかに階段と等しく見えても、俺たちの体は絶対に、目の前の段差をエスカレーターとしか認めない。ためしに、デパート勤めの友人に頼んで、開店前の静止したエスカレーターを昇らせてもらうといい。安全のために、昇りを選択すべきだ。なぜなら、まず一歩、足を踏み出した途端、確実によろめき、ほぼ転んでしまうことに間違いがないからだ。どんなに頭で気をつけていても、体はついてこない。それは、絞れる程に染み込んだ「慣れ」の果てだという。
 ここまでは理解できる。だがその次の言葉には全く、納得が行かなかった。
「つまり、既に今日、十人もの人が転んでいる事実から、この階段はエスカレーターであると言える」
 学校の三階と四階を結ぶ、どうみても何の変哲も無い階段の脇で屈みながら、彼は自信たっぷりにそう言うのだった。反論の余地しかない。動く仕掛けなんてどこにも見当たらないし、そもそも、もう三年も過ごした校舎だ。今更、塗装をべりっと吹き散らして本当の姿――エスカレーターが現れるとも思えない。
 僕らが張り込む理由を得たのは、通りがかりに漏れ聞こえてきた、職員室での議題だった。
 音楽室と職員室を結ぶ階段で、先月から怪我人が急増している。校内のどの階段も何事も無いのに、三階と四階を結ぶ、その階段だけがなぜか集中して、人が転ぶらしい。原因は調べている途中だけれど、警戒のこと。
「面白そうじゃないか」
 言うと思った、と言うより早く、僕は引きずられ、刑事ばりに階段に待機しなくてはいけなくなった。僕も彼も推理小説が大好きで、よく最近読んだ本の内容をああだこうだ言っては楽しんでいる。僕はそれだけのつもりだけど、向こうはそうではないらしい。どうも、自分を探偵、僕のことをワトソンに仕立て上げようとしている節がある。振り回し癖というのは往々にして、自覚は伴っている、だが反省の色は永遠に伺えない、というのが持論だったが、彼もまたそれを所持する一人なのだ。
 以降、昼休み、放課後、授業が無いとわかれば僕たちは階段へ行った。最初は何か無いかとうろうろしていたけれど、床がつるつるしているわけでもなく、目の錯覚を起こしたり、平衡感覚を失うような色使いがあるわけでもない。ならばもう人為的な何かしかありえないだろうということで張り込みになったわけだ。
 三日、五日、一週間、ついに原因は訪れなかった。転んでいる人は確かに実に多かった。誰かが後ろから忍び寄って突き落とすような光景は無い。ただ、もし透明人間なるものが居たとしたら、そいつがいたずらをしたみたいに、みんなよく「第一歩目」で転ぶのだ。のぼりも、くだりも。
 手分けをして、僕だけが別の階段を張り込んだこともある。そこでは、誰も転ばなかった。やはり、三階の職員室から、四階の音楽室へ向かう、あの階段だけが特別で、転びやすいように思えた。
「一体どういうことだろうね?」
 僕は尋ねる。そして探偵気取りの彼が出した結論がこうだ。
「これは階段ではなく、エスカレーターなんだ」

***

 高校生というのは、一番自由がきく季節とも、一番自由がきかない季節とも言える。ここで言う自由とは、思い通りな過ごし方、だ。そして、そのどちらを選択するかは、ほとんど「大学受験」という謎の化け物に挑むかどうか。何になりたいとか、何がしたいとか、進学校ではあったけれど多くの人はわりと無鉄砲にその化け物に挑む事を選んで、三年間をペンを持つことで過ごす。ペンを持っている間は数式を解いたり作者の思いを文中から探さなくてはいけないから、当然、将来のことなんていう煩わしい事はほとんど考えられなくて、気がつけば三年、レベル上げに勤しんでぶっつけ本番でボス戦だ。思うにこれは、一番自由がきかない高校生活の例だった。
 もう一つは、化け物はほどほどに弱っている奴を選んで倒すことにする、という選択だ。ある程度ペンを持ってレベル上げをしていると、占い師が「あ、ここなら既にA判定じゃ」と言うことがある。そこを目指すのだ。すると不思議と時間が次々沸いてでて、ゲームセンターに通い詰めたり、バイトにあけくれたり、甲子園目指したり春高バレー目指したり高校音楽祭目指したり。先生や優等生の視線はときどき痛いものの、稀に自分だけの最強装備を見つけてぐぐっと強くなったりするから馬鹿にできない。今Jポップのランキングを騒がせているバンドグループの一人は、この高校出身だって噂だ。こっちがたぶん、自由のきいてる高校生活の例。
 僕はといえばどちらにするかさえ決めかねていた。何かしたいことがあったわけじゃない。本を読む暇さえ奪う勉強は煩わしかったし、良い大学にいって広がる選択肢の魅力的さってのが、どうもピンとこなかった。でも時間が余ると勉強だってした。言ってみれば気晴らしだ。遊びも気晴らし、勉強も気晴らし。何がしたいのかもわからないまま、ついに一つのスペシャリストの称号を手に入れることもできず、もう三年目である。
 あるとき、もう一人、授業中の半端がすぎる集中具合や、部活に入ったりやめたりして落ち着かない、まるで僕のような奴を見つけた。それが彼、青柳だ。僕たちはすぐに友達になった。ただ、ひどく残念だったのは、青柳は実に、勉強も、スポーツも、遊びも、これほどかというまでに上手にこなしたのだった。
 日課のような、彼との推理小説談義に夢中になっている最中、ふと思い出して聞いてみたことがある。
「青柳はあるのか? なんか、なりたいものとか、したいこととか」
 何でもできる彼にこそ、将来の選択なんて魅力的なほどに溢れていて、決めていないに違いないと思ったのだ。
 彼は一度、俺がか? と言う顔をしたあと。
エスカレーターを止めてやるんだ」
 確かに彼はそう言ったのだ。

***

 足がぱんぱんだった。運動部にすら入っていない僕がこんな状況に陥ったのも全て彼のせいだ。恨みたいところではあるけど、馬鹿正直にやった僕も今考えればおひとよしがすぎる。
エスカレーターっつったって、どうみても」
 僕の言葉なんて耳にすら入らないというように、彼は無視して続けた。
「いいか? 言った通り、これを階段だと思っているから転ぶんだ。これはエスカレーター。そう思い込んで、五十回昇り降りをしてごらん。終わったら、次はこれが階段だと思い込んで、同じように」
 いやさすがに五十回は、と言おうと思ったけれど奴はものすごい真剣な顔でこっちを見て、促すのだ。
「ほらはやく」
 仕方なしに、ああ、なんでこんなことに、と思いながらも僕は昇り降りを始める。
「こら、ああ、なんでこんなことに、じゃなくて、これはエスカレーターだ、って思ってやるんだってば」
 読心術という反則技を使うとは彼も抜け目が無い。
 二回。おわり。三回目……。
 エスカレーター、と信じることにも慣れてきたので、その余裕で僕は質問をする。
「そういえばさ、この間、将来はエスカレーターを止めてやる、とかなんとか言ってただろ」
「ん? ああ」
 適当に言ったことならば忘れていてもおかしくないと踏んでいたが、彼は頷く。
「あれってさ……どういうこと?」
 息があがってきて、途切れ途切れになってしまう。青柳はうーん、としばらく考えた後、
「その謎は自分で解いてみなさいな」
 とまた煮え切らない事を言った。
 自分でも素直だと思うんだけど、僕は考えた。例えば、文字通りの意味だったとしたら、例えば、ものっすごい力持ちになりたいんじゃないか。手でぐぐっと押さえつけてエスカレーターを止めてしまう怪力男、青柳。当然却下だ。彼が腕むきむきになろうとする努力の形跡は認められない。ならば、このエスカレーターというのを比喩と受け止めたほうがいいだろう。ってことは……。ふと、僕は片隅で静電気の放電くらいの小ささで閃いたが、うまく形にできない。
「それって、例えば、学校に関係ある?」
「五十回。どうだ? 転ばなかっただろ?」
「あ」
 いつの間にか終わっていたらしい。いつのまにか太ももとふくらはぎに疲労感が溜まっている。たしかに僕は一度も転ばなかった。
「ねえ、今日はこのくらいに」
「次は階段だと思い込んで五十回ね」
「……はい」
 なんで従ってんだ僕は! と思った時には遅い。僕はしぶしぶ一歩を踏み出し、そして、転んだ。
「うわあ! ああ?!」
 いつ用意したのか、階段の下には青マットが敷かれていて、尻餅の衝撃は思いのほか軽い。
「大丈夫か?」
 手を差し伸べて彼は言う。油断しただけだと思うけれど、階段の一回目、僕はあっさりと転んでしまった。まるで青柳の思い通りに。
「ほらみたことか。結果は明らかだけど、念のため、もうちょっと昇降してみるかい?」
 僕としても納得したわけではない。今度は油断をしないようにして、僕はそろそろと次の足を進めた。
「くれぐれも、これは階段だと思い込むことを忘れるなよ」
 その言葉を聴いた途端、僕はまたしても、足を外した。青いマットへと逆戻りする。呆然としている僕に、青柳は窓の外を見たまま言った。
「さっきの話だけどね。僕のしたいこと、エスカレーターを止めるという事。たぶんだけど、学校に関係があるよ」


***

 進路というもののために頑張れと先生たちは言う。けど、この学校に於いては、進路なんてものはとっくに決められている。大学に行って、教育を学ぶとしたら、そこが進路だ。けれど実際に教師になるためとか、どっかな立派な企業に付く瞬間の話なんかは、全く出てこない。それが理想的なのだとしても、この高校で教えてくれる事はシンプルに一つ、大学に入る方法だ。多くの人が進むべき当たり前の道を舗装してくれているだけ。言ってみれば、高校はエスカレーターの乗り方を覚えるための場所だった。転ばないように、上手に、当然の勉強や当然の常識でもって、何があるか知らない上の階へと移動を始めるのだ。だから、本当なら、二択ですらない。自由のきかない生活をするのが当然、ましてや進学校だから、その道以外は本来なら脱線に他ならない。
 エスカレーターを止めるんだ。
 青柳の言葉が思い出される。たとえば、彼がこの、当たり前のステップアップに、石を投げたいということを言っているんだとしたら。止めるとはどういうことだろう。政治家になってシステムを変える? 全く勉強をせずに、誰もが羨む地位を手に入れることだろうか? 届きそうで届かない答えだった。
 ただ、一つだけ言えることがある。それが、彼の何の気なしに放った言葉ではないということだ。青柳は確かにエスカレーターを止めようとしていて、それに向かって着実な努力や、準備は決して怠っていないだろうということだ。間違いの無い決意の目を見て、確信に変わる。それが何なのかはわからない。でも羨ましい事に、青柳はここに生活をともにする誰もが探してやまない到達点とか、目標とか呼ばれるものを、とっくに見つけているのだ。
 それを「残念ながら」と表してしまいたくなる寂しさと、「羨ましい事に」と言ってしまう不甲斐ない僕とは別の世界に青柳は居る。

***

「階段と思っていたものがエスカレーターだった以上」
 青柳はいくつもの疑問を強制的にスキップして、なおも続ける。
「どこかに電源スイッチがあるはずだ」
 僕も慣れたもので、今では余計に質問したりせず、乗っかる余裕まで出来ている。
「まってよ青柳。すると問題がある」
「なにがだ?」
「一つは転ぶ理由だ。最初の話だと、動いていると錯覚するせいでエスカレーターが止まっていても転んでしまうという話だった。でも、これは一見階段だ。すると、どっちなんだろう。階段に見えて、なおも動いているエスカレーターだから転ぶのか。もしくは、普段は動いているエスカレーターが、止まって階段のように見えるせいで転ぶのか。もう一つ、それは電源だね。見るに、このエスカレーターだって、どういうわけか階段そのものにしか見えないようにカモフラージュされているわけだよね。だったら動力室があったとしたって、ここじゃあ音楽室かもしれない。探せないんじゃないか」
 すると青柳はとても嬉しそうに笑うのだった。君もわかってきたじゃないか、そんな事を言いながらばんばんと肩を叩いてくる。
「考えて欲しい所だけど、答えるよ。一つ目だけど、これは問題にならない。”ここが今までと違う”、このことがみんなを転ばせているんだろう? だったら、スイッチを押して、”今の状態ではなく”するだけでいいんだから、つまりどっちでもいいんだ。そしてもう一つ、電源だけど、これは推理するしかないだろうね。どういうスイッチになっているのかもわからない。体育倉庫のボール籠を空にすることかもしれないし、音楽室の防音穴を全部埋めることかもしれない。でもそれを推理するとしたら、それこそ俺たちの出番じゃないか」
 いよいよ探偵気取りが板に付いた青柳はそう言った。電源を探す。またどこから手をつけたらいいかわからない話だ。どこから探そうか? 敢えて乗りながら僕が聞こうとすると、青柳には既にプランがあったようで、言う。
「僕は君の言うとおり、音楽室を探してみよう。君は、そうだな、屋上を探してくれ」
「屋上だって?」
「いや、待って。それはやめたほうがいいかもしれないな」
 何故か慌てたように撤回する青柳。だが、
「いいよ、行って来る」
 言うとおりにしてみよう。そう思ったのはなぜだっただろう。疲れていただけと言われればそれまでだったけど、僕は確かに、階段と思い込んだ昇降で転んだ。彼が僕とは違う目を持っているのは、また間違いの無い事に思えたのだ。

***

 僕が若すぎるのだろうか。それとも、既に老いてしまっているのだろうか。周囲の青々とした野望のどれもが肌に合わない気持ちがして居心地の悪さを感じる事など、これまでいくらでもあった。
 例えば、有名になりたい、という言葉。偉くなれ、君たちは偉くなれるレールに少なくとも乗っている、という先生の言葉。切磋琢磨しあえと言う。皆がライバルだという。もちろん、目に見える形で蹴り落とし合う必要なんてない。けれど、そうやって登りに登った先、たった一人になって勝ち得た地位というものが、今まで戦ってきた誰よりも価値のあるものなのだろうか、と考えてしまう。
 口に出した事は無い。若者特有の悩み、とだけの言葉で片付けられるのが一番こわかった。恥ずかしい思いをして相談しても、そうやってはぐらかされるのが目に見えるように感じた。
 上へ上へ。ここに居る誰もが、悩んでいないわけがない。なのに、なんでそんなに、見えもしない前を見据えていけるのか不思議でならない。
 不思議といえば、青柳だってそうだ。ここにいる上を目指す人たちとも違うように感じるけれど、彼のエスカレーターを止めるという夢だって、おそらく簡単ではないのだろう。それでも、校風、もしくは、青春時代、とでも言うのか、この年齢の過ごし方としては、逆行と行ってもいいくらいに自由で、奔放に見える。彼も悩む事があるのだろうか。僕のようではないにしても。
 こうしているあいだにも、高校生活のエスカレーターは動き続けている。僕は止めたいのではなく、単に、あるいは意地で、流れに身を任せたくないのかもしれない。
 いつまでも考え続けると、未来の僕の姿が現れる事がある。エスカレーターに乗り続ける限り、僕は勉強というやつを続けなくてはいけない。大人になったら、磨耗する自分に気づかなくてはいけない。電力を供給するために、食べなくてはいけない。食べるために、電力を供給し続けなくてはいけない。少し疲れてくる。いちはやく、何かすることを決めなくては、壊れてしまう。

***

 屋上の戸を開けると、風が音を立てて隙間から我先に校内へと入り込む。蒸していて、心地よいとは言いにくい夏の風、遠くの灰色の積乱雲はゆっくりとこちらへ向かっていた。もしかしたら、少し荒れるかもしれないな、と眺める。
 白と緑以外だけが目に入った。コンクリートと、フェンスだ。スイッチも何も、凹凸だって見当たらなかった。雨の排水用に穴があったけど、それもスイッチとは言いがたい形状だった。そこを靴で刷ってみたり覗いてみたりしても、もちろんどこかでカチッと音がしたりはしない。
「何もないか」
 呟いてフェンスに寄りかかった。今は部活もやっていないのか、校庭に人の姿は無い。それだけで、世界に誰も人がいないような錯覚すら覚える。それほど、高校は世界なのだ。ここで過ごす時間があまりにも長く、だからこそ、悩みが苦しいものになっていくのだ。
 誰も居ない校庭をもう一度見下ろす。不意に、この三年の事が次々に思い出された。本を読んで、勉強した。青柳と出あった。友達と呼べる人は居たのかわからない。友達と呼ぶ事が許されるのは、どのへんからなのか。ライバルでしかないのか。宿題をうつさせてくれる便利な奴と思われていたら、友達じゃないのか。
 エスカレーターを上りながら、これからもずっと、こんな事を続けるんだろうか。誰かはいっつも横にいて、我先に上へ行こうとして、僕はまた立ち尽くすんだろうか。利用とか、利益とか、考えることなしに、誰とも付き合えないのだろうか。進むために、犠牲になるものは、どこまで膨らんでいくんだろうか。
 考えはじめると、緑のフェンスがとても脆く見えてきた。地面は近く無い。けれど、”ものの一瞬でそこに行く事”さえ、あるいは難しくないように、思えてきてしまう。
 何がスイッチになるのかわからない、と青柳は言った。例えば、僕がこのフェンスを乗り越えて、その先へ行くことがスイッチになることだって、もしくは、あるのかもしれない。
 だったらどうなる? もしかしたら、元から、これっぽっちも関係が無いかもしれない話なのに。どうかなったとして、誰かが転ばなくなるだけだ。僕は居なくなって、誰かが転ばなくなる。それだけ。けれども――それ以上の何かなんて、望んだとしてどうなるというのだろう。上出来だ、と思うべきなのかもしれないじゃないか。
 フェンスに足をかける。フェンスの向こうに立つ必要なんてない。腕に力を込めて、ちょっと体を前に押し出せば、それだけで、四階分の落下が訪れる。それはとても簡単な事だった。
 足に力を込めて、フェンスのさらに上へ。思えば、これは「決断」だ。そんなこと、僕は今までやった事がない。
 さらに上へ。こうやって麻痺しながら進むことがいやだったはずなのに、こんなにもスムーズに。手をかける。もう少しだ。
 電子音が鳴る。命のアラームなんて機能が人間にはあったんだ、なんて考える。よくよく聞いてみたらそれは携帯電話の音だ。マナーにし忘れていたのに、気づきもしなかった。青柳だ。
「どうだ?」
 いつもどおりの声で彼は言う。
「何も無かったよ。何一つ」
 だろうな、と答える声はどこか満足げだ。
「いや、”ありもしない余計なスイッチ”でも探しちゃってるんじゃないかと心配したのさ」
「どういうことだ? 始めっから、こんな事には意味がなかったと言いたいのか?」
「そうじゃない。余計な、と言ったんだ。恐らく、スイッチらしきものをこっちで見つけた。だからそっちには無い。よかった。安心した」
 胸を撫で下ろす様子が伺えるほど、確かに安心したというような声が聞こえる。まるで何もかもお見通し、と言わんばかりだ。
「余計なスイッチを探していたかもしれない」
「かもしれないじゃない。探してたんだよ」
エスカレーターを止めるってなんなんだ?」
「じきにわかるよ」
「僕はどうすればいい?」
「音楽室に来い」
「何をする?」
「歌を歌うんだ」
「それがスイッチ?」
「そう。これがスイッチ」

***

 音楽室の穴は何もかも吸い込む。ドアはぎっちりと締められて何者も漏らさない。どれだけ大声を出しても、誰も気づかない。ただ気持ち良く声が枯れていく。
 知ってる限りの歌を歌った。ビートルズ、初めて買ったCD、流行のメロパンク、親が好きだったあの曲、カーステレオでかかりっぱなしだったあの曲。
 まだ歌うか、と僕は言う。その都度、まだだ、と青柳は言う。
 いつまでも歌が続く。青柳がピアノの前に座った。上手いもので、僕が歌うものに知りもしないだろうにそつなく伴奏を付けて来る。まだだ、もっとだ、と青柳は言う。
 そのうち青柳は、おかしな替え歌を歌い始めた。元の曲も知らないから、もしかしたらオリジナルなのかもしれない。
エスカレーターを上ったら、宇宙が近くて息苦しい。
 真横に行こうと思ったら、地球が丸くて前も後ろもわからない。
 だから階段を登るんだ。
 前へ行ってる気はするし、ゆっくりだから苦しくない。
 疲れに気づけば休めるんだ。椅子にもなるんだ階段は」
 めちゃくちゃな歌だった。ものすごく気持ち良さそうに歌ってるから、止めるに止められなかったけれど。
「初めて青柳が才能無い事を見つけたぞ。作曲だ!」
 僕は腹を抱えながら言う。少しも悪い気のしない顔で、同じく大笑いして青柳が返す。
「天才は一人十個まで。ただし、もれなく一つ。今度はよろめくなよ」
 僕を指差して。頭の中がいっぱいだった。たった今の青柳の歌を忘れたくなくて、何度もリピートしていたせいだ。

***

 あの階段で転ぶ者は、いつのまにかいなくなっていたという。別に驚きはしなかったけど、この学校にエスカレーターのような設備はないし、過去にあった事もないそうだ。
 夏も終わりに近づいて、多少、涼しくなった。それが精一杯推理した結果で、他に変わったものなんて探せなかった。ノートと睨みあっていたクラスメイトが突然顔をあげて、今度は僕を睨んで言った。
「おい! 受験終わったらめっちゃくちゃ遊びに行くぞ!」
 も、もちろんだ、とぎこちなく返す。突然だったから面食らった。クラスメイトはまたノートと向き合って、おっしゃーと言った。
 この大事な時期に、僕はまだ推理小説を読んだり、勉強をしたりしながら、ときどき作曲なんかに手を出すようになってしまった。あの歌くらいなら越えられるんじゃないかなんて、一人でにやにや笑いながら、階段の一歩目をしっかりと踏みしめて。