にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

ワンダフルライフ


 夏の夜、社員研修の電車代をけちって与野から上尾までを自転車で行ったはいいが、帰りが大雨、加えて疲労で漕げども漕げども車輪が全く軽快に地面を蹴らないといった有様だ。そんな紫陽花を這うような例のうずまいた殻の虫のような俺だったのだから、虫にして鴨、自転車の籠の鞄を奪って生計を立てるような輩には格好の餌だったに違いない。しっかりとこれ以上なく鮮やかに当たり前に俺はひったくりの被害にあった。
 およそ統計に従えば俺のように若くて生命力だけは溢れているゴキブリのような男は、捕まえるかどうかは別にして、地の果てまで追ってゆくのが筋道というもんだ。
 それをしなかったのはまず第一に疲労。そして第二に、今しがたの考え、そっちのほうを追ってしまったというわけだ。つまり、俺は結局虫なのか、鴨なのか、カッコウなのか餌なのかゴキブリなのか?
 しかし片隅には冷静なる部分は確実に残っていて、その高度なエネルギーはひとつ、プライドを保持する、ふたつ、プライドを捨てる、の両面に注がれたのだからややこしい。
 前者が俺に思い起こさせたのはこうだ。何もしないままなどいけない。行動を起こし、ひったくった奴に一泡を噴かせずして何が蟹か。馬鹿な。いつ蟹になったのだ。
 後者はそれを踏まえた上で卑劣な考えだった。
「泣き喚け」
 その命令が脳に下されると俺は本当にわんわん泣いた。犬のごとく。また増えてしまったが、とにかくすごく泣いた。
 ひったくりとしても、今までいきり立って追ってこられた経験はあっても泣き喚かれた事は無かったと見える。あとは逃げるだけ! といった具合にしっかり姿勢を作っていた自転車の上からすっと降り立ち、ごめんな、おじさんを許してくれ、と来たもんだ。
「お詫びになるかわからないけど、これでご飯でも食べて。悪かった。おじさん、リストラされたんでカリカリしてたんだ」
 ほうほうクルミをかい? わー俺やめろー! またリスが増えるぞ! 
「そうだよな、おじさんだけが苦しいわけじゃないんだよな」
 おや、色々言っているようだが、これはひょっとすると俺にとってマイナスではないぞ、と今更気づく。いつのまにか千円を握らされておじさんはすたこらさっさ、罪をつっつく暇もない。
 結局残された俺はおじさんの千円を取り返したバックの財布にねじ込んで、そいつで寿司を食べた。長い自転車の帰り道、栄養補給はばっちりとなる。そして気力もだ。ひったくりが踵を返して戻ってくるなんていうような日は、万事好転、怖い者無しの一日と考えてもまず不自然じゃないだろう。さてその一日だけれど。
 時刻は二十二時、奇跡の効力は二時間だけ残されている。充分だ。とは、言った、ものの。公営ギャンブルは閉まっている時間だし、さて何をするか、なんて言ってる間に道に迷った。何度も同じ場所をぐるぐるだ。
 今は西、二分後東の旅がらす、いや旅というわけではあるまいし、さて、迷う今の俺を今度は何の生物に例えるべきか。巣を忘れた蟻? 花の無い荒野の蝶か?
 見慣れた道に出る。物覚え、ことに道に関してはてんで駄目な俺が覚えているのは、この大宮から西に10分の風景が、兵庫――西宮の道路によく似ているからだ。西大宮はまるで西宮。
 さて、ここからなら帰る事も出来る。ただし、俺は例によって第一に疲労していて、第二に、今しがたの考えを追っていたってわけで、どうやらそれで解が異なった。
 高架の下の坂を全力で漕ぐ。位置エネルギーを最大限利用して、そのままの勢いで潜る。のぼる。また、景色がひらけると、そこは兵庫だった。
 不思議な事もあるもんだ。ところで時刻は二十三時、奇跡の残りが一時間。そう観光もしてられない。俺は埼玉方面にもある「似た景色」を探して再び自転車を漕ぎ出す。もう一度同じことを考えながら、もう一度高架下を潜ったら、俺は本日何度目かの貴重な体験を経て、また埼玉へ戻るだろう。へとへとだし、べとべとだ。そんな生き物すぐには思いつかない。場所と時間をスキップして得たらしい活力で、前に漕ぐ。漕ぐ。虫、鴨、カッコウにゴキブリ、それに蟹のうえ、犬だしリスだ。
 どこかで見たような高架がある。あれはどこだったか、ああ、ありゃ仙台だ。ちっ、しゃあねえなあ! 俺はダッシュをかけた。さっきは何を考えたっけ? そうだ。
 そんなん言われたって、俺人間だもんよ!

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