にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

花見の席

 何も持たぬまま出かけようと思ったが、あれこれ思いがけない事などしなくとも良い心配をしているうち、ちょっとした旅行にしても充分な財布の中身と、そこそこの重さの鞄までもが着いて来た。見知らぬ駅を降り立って、ひと気の無い飯屋に、行き当たりばったりで尋ねようと思っていたのに、丁度飯時にはぐっすり眠りこけて、電車は随分と北へと来てしまった。もとより何も考えずただぶらぶらしようと思っただけだから、計画倒れでしまったということも無いはずなのだが、どことなく悔しい心地もする。どうにもここ数年で全く羽を伸ばすのが苦手になったと見える。
 汽車は流星の疾きにと言う間も無くこまごまと各駅で足を止め、私はそれを少々残念に思う。二百里の春を貫く様をただじっくりと見たいと思っていたのに、風邪でもこじらせたものか、車掌が到着を知らせる度にゴホゴホと咳き込むのだ。おや、山が、と思う矢先にホームに着き、げほげほとやるのだから、浸る隙も無い。先ほどまで寝ていた身で文句も言えないが、今の今までどうも遠出をしたように思えぬのは、その為かもわからない。
 そんなこんなで、どこへ行ったら引き返そうかと考えていたはずなのだが、今度は途端に、景色に夢中になって時間を忘れている自分に気がつく。どうも、宇都宮をさらに北へ行った辺りから電車は急に静かになったように思える。車内の人の喋くる声は変わることなしに響いて来るし、先程迄と比べてもかえって揺れているくらいである。けれど、その揺れる音の響きが染みるように、周囲は静かになって来ているように感ぜられた。駅間も長くなり、私はこれだこれだと胸躍りながら窓に張り付いた。
 矢板の手前あたりだったろうか、窓の外すぐ側に敷き詰めるように咲いた細やかな赤い花が、丸く連なって線路沿いに並走した。全く名前も知らない花だったが、私は勝手に三椏、と思い込んだ。三椏すらよくよく見た事が無い。ただ、昔聞いた句を思い出しただけであった。
 ふと、窓に映る、こちらを向いた目を見つけた。見れば通路を挟んで対の席に居る老人が、ずっとこちらを見ているのだった。老人は、この鮮やかな花を目前で見られる私の席を大層羨んでいるように見える。私は顔に出るのを必死に抑えながら、内心得意で仕方が無かった。
 ところが、私の天下はものの数分で終わってしまったのである。何時までも見ていたいと思っていた花々はやがて途切れ、また色味の少ない風景へと戻る。これはこれでいいものかもしれなかったが、私はもっと花を見て居たかった。仕方なく姿勢を戻すと、今度は対の席の窓に三椏が、まさに百花繚乱と言わんばかりなのである。
 思わず身を乗り出すと、老人がこちらを向く。そして、にやり、と笑ったように見えた。悔しいが、今回は完敗であった。そんな風な勝ち誇った顔をされたものだから、私は席を移るのもどこか癪で、今度は逆に、私が羨ましそうに遠目から見る番となった。
 そうこうしているうちに、老人は鞄から酒を取り出し、ちょっとしたつまみを取り出し、なんとも花見の準備が万端なのである。この老人は、ここへ座れば良い花見が出来ると、知っていたに違いない。そうであったなら、先程羨ましそうに私を見ていたと思ったのも勘違いで、もしかしたら、私が内心得意にしているのを、それこそ面白がって見ていたのではないだろうかと思い、恥ずかしさが込み上げて来る。
 なに、計画の無い旅をしようと来たのだ、準備の差で悔しがってどうする、と強がる。気がつけば電車は終点である。
 ホームへ降りて、階段へ向かう途中、振り返る。折り返す電車に、老人は乗ったままだった。どうやら帰りも花見らしい。いや、もしかしたら早朝から、ずっと乗っているのかもしれない。
 再び発車の合図が響く。老人がこちらに気づいて、乾杯、とやった。面食らったが、手にしていた雑誌を丸めて、こちらも乾杯と返す。顔はにこやかで心底楽しそうであった。
 電車が発つ。ゆるやかに曲り行く線路が木々の裏へと電車を隠す。私からは見えない花を見ながら、酒も進んでいることだろう。空の端の雲が、この沿線へとやってこない事を願った。雨が降っては、花も散るし窓も滴で見えにくかろう。
 やや遅い昼食を手早く済ませ、酒を買う。行き当たりばったりをやり直そうと考える。やる事は変わらない。適当な電車に乗り、窓の外を見るだけだ。ただ、次の電車では、左右どちらの窓際に座るか、どこまでも真剣に悩んでみようと思った。