にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

籠とカーテン

 カーテンを引きちぎった。眩しい朝日や淡い月明りがぼくを照らすかと思ったのに、そこには真っ白な壁しか無かった。落書きのひとつだって探せないし、他のカーテンを開けて窓を探す気力だってとっくに失われてしまっていた。いつだって逃げ出せるかもしれない場所に身を置きながら、ぼくはぼくのせいで、ここを永遠に牢獄にしたのだ。時々すきま風を探して耳を澄ますふりをする。ただ自分の呼吸が、えらく近くにあるらしい壁から跳ね返ってくる音だけが聞こえた。

***

 どんな些細なことであれ経験するに越したことは無い、そう信じて過ごした六年はロングショットで見てみればほとんど塵よりも小さく見えなくなって、今覚えていることはいくつかの死と偶然の成功、その程度しか無い。そしてそのどれもが、現在のぼくを苦しめることぐらいしか役目を果たしていないのだった。誰かにシャッターを押させて、アルバムに切り取ったたくさんの風景を集めておいたならば、あるいはこういった有様にならなかっただろうか。白い壁に落書きを残すように、牢獄のぼくはそこに何か希望を見たかもしれない。見なかったかもしれない。いずれにしろ、意思に何かしらの作用があったとして、最終的に動くのは自分だとすればそれは何も変わらないのと等しいのだった。
 第一の記憶は祖父の死にあった。何かの境目になったに違いない出来事だったはずなのに、忙しさと、前後のぼくの落ち込みようもあってか、いつ頃なのかが少しも思い出せない。ただ中学生だった気がする。
 長く癌と戦いやつれ果て、痰取りのチューブを口に突っ込まれようが咳ひとつできなくなっていた祖父が、本当に死を待つばかりになっていた時のことだった。土地を持っている祖父は人脈も人並みならないものがあったが、それだけに入院中は空虚な言葉や欲に満ちた慈愛ばかりである、ということを見舞いにきたぼくによく話していた。病状が悪化して、それもままならなくなってからは、ただ弱い力でぼくの手を握り返すことしか出来なかった。
「心臓が強いかしてなかなかくたばらんな」
 あきらかに聞こえるような声で言う者も居た。祖父は返事が出来ないし、ぼくは子供だと思って舐められているのだ。そんな時、ほんの微かに、ほとんど感じられないくらいに祖父の手に力が加わるのを感じる。だからぼくは知っていたはずなのだ。祖父は耐える戦いをしていて、今手助けできる人間は誰もいないのだということを。

***

 白い部屋で一人うずくまっていると、耳元に羽音が纏わりつくので、ぼくは思わず手を払った。手に何かが当たって、しまったと思ったときには遅かった。ぼくの足元に虫みたいに小さな鳥が横たわっていた。ひどく小さな鳥だったが、血の通っていることは叩いてしまったぼくの手に残っていた感触でわかった。
 鳥は横たわり宙を見つめて、まったく動かないまま言った。
「なにがおこったんだろう」
 あまりにもぽつりとした声だった。全身が震えて仕方が無かった。すぐに涙が溢れるのを感じた。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝る。
「きみにぶつかってしまったわけか」
 動かないまま、鳥は言う。違うんです、ぼくがあなたを叩いてしまった。けどその一言だけがどうしても口から出なかった。
 言い訳をするならば、この部屋にぼく以外が入ってくることは絶対に無いことのはずだった。ぼくの知る限りにおいて窓は無く、それ以前に、ここはぼく以外が絶対に入ってくることの無い場所だから。けれど、叩いてしまった鳥にいまさら何と言葉をかけられるだろう? 事実ここへ居るのに? 窓が無いという保障はぼくのもので、部屋の責任は全部ぼくにある。やっかいな場所だ。叩いたことと関連付ける言い訳にだって本当はならない。ぼくはただ、優位でわがままな立場にいながら、簡単に卑怯になろうとしているに過ぎない。それは安易に祈るよりも喜劇的に悪だった。ただ、それでも涙だけは出るのだ。

***

 何者にでもなれると思っていたはずなのに、ぼくは文章を書くことにひとつのこだわりを持って将来へ臨んだ。そんなものには、何者にもなれなくなった果てに漸く選べ、と祖父は言ったが、まるで耳に入れなかった。祖父の言うことはよく理解できる。何か試してみて馴染むのであれば、その道は少なくとも間違いが無い。必要な何かを適所で発揮できるというのはとても幸せだという事だろう。何一つ持ちが無くても目指せるようなところは、結局最後に目指して困るものでもないのだ。
 頑なだったぼくは、あらゆるものが文章の糧、と信じて何ものにも興味を示すことをした。それゆえに、何事も八合目を良しとして、なれるからなったのか、なれないからならざるを得なかったのか、聞くに馬鹿らしい総合的人間の階段を着実にのぼっていた。
 しかし、この文でさえ、すべての言い訳に過ぎないのかもしれない。すべてを糧にと思うあまり、死に際の祖父にぼくは聞いた。
「いまどんな気分なんです?」
 逃れられない死が迫っているのに、しゃべることすら出来ないと知っているのに、力の入らない手になって、陰口や、医者の手荒い看護に抗議すら出来ないのを知っているのに、ぼくはそう聞いた。痩せこけて、日ごとに骨と外界の距離が近づく自分の手を見ていて、今や生かされているような自分を痛いほど刻み付けている祖父に、どんな答えを欲しがってぼくは聞いたのだろうか。何も答えず、ただ目を閉じた祖父は何を思っていただろうか。他ならぬぼく自身のせいで、祖父も、ぼくも、その時永遠に呪われたように感じたのだった。
 数時間後、祖父は命をなくした。
 ぼくは部屋で生きている。

***

 小さな鳥を掌に乗せながら、ぼくは未だに自分のしてしまったことを説明出来ずにただ泣いていた。
「ないてくれているんだね」
 鳥は言った。そんな事を言ってもらう資格はぼくには無いのに。部屋を見渡す。鳥を救う方法はどこにあるだろう。カーテンの外にあるだろうか。それならば、ぼくはなぜカーテンを開けられないのだろうか。
「きみがいてくれてよかった」
 ぼくは何もしていない。でも鳥はそう言った。白い部屋には何も無い。でも今は呼吸の音がひとつ増えて、ぼくの手には温もりがある。