にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

ワールドエンド

 酷くうなされた気がした。目が覚めるとデジタルの時計は4時47分を表していて、三分進んでいる事を考えれば彼がこの世に意識を取り戻したのは4時44分ちょうどだった。何かを考えていたわけではないが頭を掻き毟った後のように、手が油っぽくなっているのが不快だった。夏場だというのに外は明るさの欠片も無い。いつもこんなものだっただろうか。早い時間に起きない彼にはわからない。再び眠れる気もしなかったのだが、こんな時に限ってテレビは壊れていた。電源を入れた音はするけれど画面は真っ黒なまま自分の覇気の無い顔しか映さない。
 時間を持て余して部屋を掃除した。本棚とCDのラックを整理した。近くの自動販売機へ向かいコーヒーを買って帰る。コーヒーを飲みながら、すっかり忘れていた懐かしい本を再び読んだ。たっぷり時間を使ったかと思われた時、電話が鳴った。
「どなたですか」
 電話をかけてきた相手はあやふやこんな言葉から切り出した。英語である。彼は英語が得意ではなかったが、言葉上ではなく意識に語りかけてくるようで理解は可能だった。同時に、その声が何か切迫した、怯えているような響きを持っていることも。
「僕はオーストラリアの西海岸に住んでいます。僕の言うことがわかりますか。もしわかるようなら教えて下さいませんか。たくさんの事が不安に満ちています。例えば、鳥の声は聞こえますか」
 彼は聞こえない、と答えた。
「やはりそうなのですね。いいですか。僕の話が終わるまで、絶対に時計を見てはいけません。約束してください。どうも嫌な予感がします。あなたが今日目が覚めてから、ちょうど一時間が経ったのではないですか」
 声の真剣さに、時計こそ見ることは出来なかったが、凡そそれくらいだろう、と彼は答える。
「そうでしょう。サマータイムを除いたら、僕の居る場所とあなたの居る場所ではちょうど一時間の時差があります。いえ、こんな事よりも先に言っておかなくてはならない事がある。僕は不思議な力を持っています。その力を今だけでも納得し、僕を信じて行動して下さい。今まで、友達や親族が亡くなった時、僕はどれほど離れていても、その瞬間の時間に涙を流すことが出来ました。手紙や電話よりもっと早く、僕は理解できるのです。ああ、誰がの息が終わったと、瞬間でわかるのです。時計は見ていないでしょうね?」
 彼は見ていないと答えた。
「僕も時計は見ていない。でも今何時を指しているのかは、とてもよく理解できる。信じられないかもしれないけれど、きっと貴方の時計と同じ時間を示しています。いいですか、見てはいけませんよ。貴方の部屋のデジタルの置時計は、一時間ちょっと経ったけれど、未だもって同じ時間を示しているはずです。全ては貴方から始まり、寸分違わぬ悪夢が僕にも訪れた。そしてこれから24時間の時間をかけて、この悪夢はゆっくりと西へ広がって行くのです。世界各国で次々にあの時間が訪れて、止まる。ちょうど一周時間が追い着き終えた時、地球は大変なことになってしまう」
 電話の声を聞いている間、彼は一切の生き物の気配や、車の音を感じなかった。同時に外が先ほどまでよりもっと暗くなったのを感じる。
「狂ってしまった事を正常にするためには、もう一度狂わせなくてはいけません。世界は僕らが従ったルールと同じように目が覚めて、時を間違うでしょう。あなたは世界中へ電話をかけて――誰でもいいのです、とにかく西へ向かって順に電話をかけ、少しでも多くの人を、我々が見たこの時間の前に起こさなくてはいけません。誰かではなくて、数こそが重要です。いえ、僕も協力させてもらいます。お願いです。もう一度狂わせること、これを手伝ってください。というのも、酷い言い方になるけれど、貴方の夢に、大きな責任があるんですから。そして貴方の不用意さにも。いいですか、時間はつっかえていきます。ネパールならばあと二時間。チューリッヒならば七時間。少しでも多くの人を起こしてください。お願いします。僕も今から、あなたにしたように、世界中へと電話をかけることにします。それでは、互いにランチの時間が訪れる事を願って」
 悪戯で無いということをどこで判断したのかは定かではなかったけど、彼はその後あらゆる場所へと電話をかけ、人を起こした。必死だったので、用件などを言うこともせず、起きたことを確認し次第、つぎの人へと、手当たり次第に各国へ電話をした。何十件、何百件と電話をしても、カーテンの外は暗いままだった。気付かぬうちに夜になってしまったのではないかと疑う。それでも時計を見ずに電話をかけ続けた。
 さらに何百件と電話をかけていると、彼の中にほんの少しの疑問が沸き始めた。あの電話が本当に悪戯だったとしたら、自分はなんと馬鹿げた事をやっているのだろうと感じ始めた。外は確かに夜になったので暗くなっただけのように思われてきた。今日は休日で、あまりに寝過ごした挙句、夕刻を過ぎてから時計を見たのを勘違いした可能性もあるのではないかと思い始めた。電話が鳴る。
「僕です。ちゃんと電話をかけてくれていますね。そろそろ不安になっている頃ではありませんか。でも、絶対に時計を見てはいけませんよ」
 彼はようやく疑問に思っていたことを口にした。
「君は誰なんだ。どうして僕なんだ? 何が起こって結果どうなってしまうんだ。あれから時計は見ていないよ。でも悪戯じゃないかと今では思っている」
「いえ、悪戯なんかではありません。お願いです、理由も要らなかったこれまでの数時間のように、あと少しだけ僕を信じて貰えませんか。あと一息、あと一息なんです」
「僕が君を信じたのは、只ならない、とても追い詰められた状況にあるのを感じたからだった。でも今よく考えると、僕はこれまでたくさんの只ならない状況にある人を見過ごしてきたし、世界が終わってしまえばいいと思うほど悩んだ時に、必ずしも助けてもらったわけではない。放っておかれることのほうが多かった。自ら望んだ結果だと言うかもしれないけど、少なくともオーストラリアの君とこの僕には影響なんて普通は無くて、君からの電話が無ければ、僕はいつもどおりの朝を迎えたはずなんだ」
「疑いたくなるのもわかります。あなたが悩んでいたときに、力になれなかったことも、今は悔しくてしょうがない。だけれど、今だけ、今だけもう少し信じてください。お願いです」
「ありがとう。でももう良いのではないですか。僕は影響を信じたり、余計に関わったりするあまり、不必要に自分に残酷な遊びや、他人に苦しい思いをさせるのはもううんざりだ。全部無かったことにしましょう。もう終わりです。僕は時計を見て、いつもの生活に戻ります」
「待って――」
 電話を切る。彼の言った「理由も要らなかったこれまでの数時間のように」という言葉が急に頭の中で繰り返された。少なくとも数時間、オーストラリアの彼と自分の間には理由の要らない時間が存在したのだった。地球が大変なことになると言われた不安よりも、彼の切羽詰った様子が思い出されて辛い。その事に気付いて少し驚いた。恐らく純粋に善意であったろう思いに報いる事ができない自分の小ささに苦悩して、頭を掻き毟る。また不快な油が手に纏わりつくのを感じる。けれども、それでも、もう終わりにしなくてはいけない。彼は時計を見た。そこで目が覚めた。

***

 酷くうなされた気がした。目が覚めるとデジタルの時計は4時47分を表していて、三分進んでいる事を考えれば彼がこの世に意識を取り戻したのは4時44分ちょうどだった。何かを考えていたわけではないが頭を掻き毟った後のように、手が油っぽくなっているのが不快だった。外は静かに暗くて、あと何時間の後もそうやって静かでいるように感じられた。どこかで鳥が鳴くのを待ちながら、彼は自分が見た夢を思い出そうとしていた。一切が思い出せないけれど、涙だけは次々と落ちてきた。この部屋の壁に区切られて一人で居続ける事が恐ろしくて悲しくてたまらなかった。彼は電話を取り、適当な数字を押し、電話をかけた。
「どなたですか」
 自分が発した言葉なのか相手が発した言葉なのかはわからなかった。同時に、微かに鳥の声が聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。ただ、次に鳥の声が聞こえるまでは、するべき何かを探しながらゆっくりと待ってみようと思った。