にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

夜おとこ

 月が滑るみたいに真横に流れてまばらな雲をかいくぐっているので、見えたり見えなかったりするのでした。恐らく今のところ、天球の支配者は神様でなくその子供へと移り変わっていて、地球儀で遊ぶみたいにぐるぐるとやっているのでしょう。地表で鳴く蛙は音でなく声を出し、前世紀の祈りを全て天に還します。間違いは誰にでもあるとは言え、抜け殻の隣で横たわる蝉はアスファルトの上でもの悲しくて、時折吹く風は何とか土の上までと頑張っているに違いありません。意地の悪くないこの夜の温度は、夏が休んでいるのです。時折そうやって、微かな冷気と雨上がりの砂の匂いをゆっくり降らせる空の様子があることは、コウモリたちは皆知っていました。
 カエデの立ち並ぶ道の果てにある、ここいらで一番夜に紛れる屋根の色をした家の窓の一つから、湿気に運ばれて石鹸の匂いがし始める頃、夜おとこは話をこしらえて音をのせ、歌にして空にあるあの光る点に聞かせてやるのです。誰一人虫一匹気付くことの無い声でひっそりと歌わなくてはいけません。それが光る点に出されたたった一つの条件でした。光る点の言うことには、誰にも気付かれず歌っている限りは、夜おとこはいつまででも歌っていて構わないとのことでした。身体が潰れるまで、何日でも歌い続けて良いのです。だから今日もまた、夜おとこは喜んで、指揮をするように、瞬きをするように誰にも聞こえない声で歌っているのでした。空にしか届かない声を寂しいと思った事はありませんでした。風にしか見えない体もまた当然のように思っていました。自分は夜おとこであって、それ以上を求めるのは誰にともなく失礼であると気がつけば思っていたのでした。夜おとこにとって、自分が観測され得ない境遇であろうと、それは問題にするほどのことじゃない、と思えるのです。光る点が自分に惜しみなく拍手を送ってくれるためかもしれません。
 ある時、夜おとこは蝉を運ぼうとする風の独り言を聞いてしまいました。それは身体を撫で、そのまま染み入るような言葉でした。
「煙のような雲の下、お前はせめて土の上で眠られい。隠れるためでないぞ、これからのずっと、のためだ、お前はせめて土の上で眠られい」
 ふと、夜おとこは自分が見たことの無い世界を心臓に取り込んでしまったような自分に気がつきました。月と光る点にばかり聞かせていた自分の心中が、どうも昼時の太陽のように燃えているような気がしました。自分が欲しているものはそこにあるような気がしました。
 夜おとこは油断すれば景色に溶け込んでしまいそうな自分の五感に丁寧に色を塗り、準備を済ませました。そして今度は、誰にでも聞こえる声で、笛を鳴らすように踊るように歌い始めました。
 すぐにこれまで一度も感じたことのない緊張が走りました。緊張だけでなく、自分を縛るような、同時に何者も、衣服でさえも自分を締め付けはしないような、言ってみれば「隠れがたい」空間で辺りが満たされたように感じました。光る点の拍手はただのまたたきになりました。雲が見えます。月が見えます。風が吹きます。虫が鳴きます。雨上がりの砂の匂いが降ってきました。
 歌い終わり、朝露のような汗を顔に浮かべて、夜おとこは消えました。明日にはどれくらいかわからないまでも自分の輪郭がもっと見えているかもしれません。これからは、見開いた目が何も選ばず自分に景色を運ぶのだと知りました。たとえ自分の鼻が伸びていこうとも、絶えず自分で折り続けていく事もまた必要なのだと思いました。空気さえ肌に突き刺さることもあるのだと、耳は信頼されるための恐れを抱かなければならないのだと、繰り返し頭をよぎりました。
 夜おとこが消えた跡に虹を捕らえた霧が残り、そこに向かって世界中が語りかけます。
「これからはおれたちがすべて見聞きしよう、お前をあるものと解ろう、光の点に負けない発光体へ向けて前へ行く、包まれるようにお前はあらわれた。自らを隠れがたく置くものに、おれたちが絶えず音を返事しよう」
 朝の光は時計の音と、昼の光は電話の音と、また夜おとこの影を照らします。鳥が横切って、猫が見つめるその何も無い空間に、夜おとこは帰ってきます。また月が昇るころ、月の光を浴びて、誰の目にもはっきりとした姿で。