にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

猫と道路のルール

 道路のペイントの秘密は僕だけが知っている。「止マレ」とか、「40」とかを形作るあの白線は長い間上を見続けたせいか魔力が宿っているらしい。例えば事故が起こったとき、野次馬が去った後の現場で白線をよくよく調べてみると、汚れや風化やこびりついたガムなんかで大抵一部分は悪魔の顔が見つかる。暑い日が続けばだれた表情になるし、薄い雪に目を閉じることもある。ペイントは僕たちが考えているよりずっと豊に表情を見せているのだ。
 もちろん喋る事だって出来る。夏の日に停止線を手のひらでなぞった時の音は「今日あちぃよ」という人間の言葉に簡単に置き換えられる。僕は「まったくだ」とか「水飲みたいな」などと返事をする。ただ大体のペイントは数種類の単語しか喋れないため、僕はなかなか彼らと話し込めずにいた。いつだったか、家の最寄のコンビニ前にある停止線と話していると、目の前をダンプカーが通り過ぎていった。通り過ぎた後の停止線をなぞると、案の定、「痛いし重いし」と言うのだった。
 僕が始めてペイントと長話をしたのは真夏の深夜だった。僕は庄内に勤めていて、毎朝通勤のために月山道を通る。最近の月山道は工事の名所として名高く、いつも渋滞していたので、朝も夕方も目的地に到着するためには普通かかる時間より三倍増しで計算しなければならなかった。ある時、僕は会社に重大な忘れ物をして、深夜の月山道を車で走っていた。いつになく快適な走行に、僕はふと思いついて普段暇つぶしに聞いているオーディオを切った。中央帯にタイヤを乗せて耳を澄ますと、その凹凸が僕に語りかけてくるのだった。
「やあ、噂には聞いているよ。君が話せる友人かい」
 そうだ、と僕は答えようとするが、そんな隙も与えずペイントは話しかけてくる。
「良かった。実は聞いて欲しい事があるんだ。これじゃあちょっと唐突が過ぎるかな。なに、庄内まではまだ時間があることだし、急いで話す必要も無いだろう。おっと、ここまでは独り言だから気にしないでくれ。今日という日まで何度も太陽と月とが交代するのを見てきたものだから、君のタイヤが俺の上に乗っているこの時間が貴くて仕方がないのさ。どうも愚痴っぽくていけないな。すまない、何しろここは工事ラッシュ――今日俺が白線でも、明日には代わりに、あのいまいましい植え込みが置かれるかもしれないだろ。まあこの道幅じゃそれも無理かもしれないが。不安で仕方が無いんだ。一瞬だったり、思いのほか長かったり、俺らの寿命は人間に比べて長短差が激しいので、こういう時ふと不安になってしまうんだ。うーん、違うかな。そのせいじゃないか。人間だって急に不安になるものだよな。君たちはみんながみんな、自分が平均のちょっと上あたりまで生きる心積もりでいるだろ、それが何となく羨ましくなってしまってね。でも、俺らと人間じゃ何も変わりは無い。そういう前提で話を進めようじゃないか。
 同じなんだから、当然悩みもあるんだ。それは存在意義についてだ。やっぱり唐突な感じは否めないな。でもこればっかりは話したくて。俺らは体張って、『止マレ』とか『40』とか、とにかくそうやって君達に訴えかけてるだろ。だけど、止マレの場所で車はろくに止まりやしないし、『40』と言った所でまあ七十キロは出てるよな。別に君達を責めているんじゃない。ただ俺らはこれらを伝えるためだけにここに在るんであって、それが全く意味を成していない以上、俺らって何なんだろうって思うことがあるのさ。
 人間は生まれた意味がわからなくって、生涯それを追っかける事が出来るんだよね。俺らは逆で、生まれた意味なんて解りきっているけど、そのために動く事は一切出来ない。だからなんだろう、こうやって、動かないで毎日何度も行ったり来たり考えたことを話したくて仕様が無いんだ。余計なものも多いけれど、どうか我慢して聞いてくれ。
 そこでなんだ、こうやって話せるというのも縁。ここは一つ君が、俺らの在る理由を満たすか、新しい理由を作るかして、俺に人生の充実を与えてくれないか。もちろんその中……あるわけだ……し、たくさん……より……」
 急に強い雨が降り、僕はワイパーを動かした。雨でペイントの表面の凹凸が覆われて、中央帯の声は急に聞き取れなくなった。随分と贅沢なお願いをされたものだ。僕は会社に着き忘れ物を鞄に入れ、来た道を引き返す。雨は止まないままだった。僕は眼前で扇型を描き続ける棒に話しかけてみる。君らもそういう悩みってあるのかい? ワイパーは何も言わず音だけ立てて、ただ自分のすべき事を続けていた。
 ペイントが寡黙な冬が過ぎ、次の夏が来た。月山道の工事ラッシュも落ち着きを見せ、以前よりずっとアクセルを踏んでいられるようになった。もう一度彼と話したい思いもあったが、中央帯にタイヤを乗せる事は彼の存在意義を傷つけるような気がしてためらわれた。家の前の停止線や矢印との雑談は続いていたが、月山道の白線のお願いに関しては何も出来ずにいた。
 僕自身、考えてはいたのだ。例えば、道路に書かれた「40」という数字を、夜中にこっそり「80」と書き換えてみてはどうだろう。この数字は守られるだろう。自分に都合の良いルールのほうが、その逆よりも遥かに守られ易いものなのだ。ただ、それで彼は満足するだろうか? 満足だって?
 日差しの強い日曜、家の前で熱膨張でぐったりしている白線と話していると、物凄い速さで猫が道路を横切った。悪質な飛び出しの上、スピード違反だ。僕は頭の中であの中央帯に話しかける。これからは猫語で書くかい? そういうことじゃない、と彼は怒るかもしれない。そしたら、じゃあ、どういうことなんだろう、と僕は聞き返すのだ。彼は何度も説明を尽くし、僕はいつまで経っても理解しないかもしれない。それでも、車のほとんど無くなった深夜を往来しながら、そっとタイヤを中央帯に乗せてみようと考える。僕はただ聞く事をしようと思うのだ。彼のお願いは聞けないにしても。