にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

空だけのこと

 登場人物は一人も居ない、空だけの事を話す。僕がなぜ空について話せるかというと、単に知っているからだ。他の言い方を探すのは難しい。教科書に載る知識では決して無いけど、時折知っている者が現れる。人間も、知っている、という状態のことをとにかく後天的に説明したがるけど、本当はもっとずっと前から、それこそ単に知っているだけのことなんていくらでもある。生きているものは誰でも、伝統的錯覚と言うやつの前で余りにも無力なものだと思う。もしそれに賛成してくれるのだとすれば、僕はこの事を格段に話し易くなるのだけれど、どうだろうか。
 さて、空だけの話だ。夏の空を見た梅雨が「なんと素晴らしいことだ、音やら光やらが通り易くて澄んでいる。ただ澄んでいるだけじゃなくて、堂々と、余すことなく活力を湛えている。空は夏に限りますな」とそそのかしたものだから、夏の空はいよいよ調子付いて、目下の青いゆらゆらを暖めたり、目下を暖めてゆらゆらを作ったりした。
 気分が良くなったのか、遮らせる白を一切取り払って、いよいよ真っ青になりながらいると、夜の間に、空はすっかり梅雨に乗っ取られてしまった。夏の空は、もっと上にいる赤い玉と手を組んで、すぐにでも取り返してやろうと横から隙を伺っていたけど、梅雨はいつ寝ているのか、全く完璧に空を覆い続けた。
 ついに夏の空と赤い玉は説得を始めた。命が足りなくなるから、と言って聞かせると、梅雨は水を落とし、明るさが足りなくなるから、と言って聞かせると、一筋光を落としてみたりと、ほとんどだだっこみたいなものだった。赤い玉はさすがに疲れてきたのだけど、それでも必死で、「僕たちの場所ではみんなゆっくりと見えるに限るんだ。君が落とすものは、水も、光も、全部が早すぎる」と言った。そしてついに眠たくなって夜と交代した。梅雨は何か思う所があったのか、次の日どこかへ旅だった。寂しい気もするが、来年またお話できればそれでいいのだ。ここはゆっくりに限る場所なのだ。
 その後真夏の空は、次に空を明け渡す季節まで、何もかも遮ることなく通してやろうと考えて日々過ごした。例えば飛行機雲が、たとえば鳥達が、たとえば光が、音が真っ直ぐに自分を縫って、そして遠くへ行った。そうやって幾つもの形を通しながら、軌跡をすっかり覚え込んで、その記憶を空の隅々に満たした。おかげで夏の空はより一層輝いた。次の季節も心配無いだろうとようやく思えた頃、空は夜中にちょっと熱を吸い上げてみて、代わりに白い星をいっぱいに浮かべた。火の粉の花が自分の片隅で咲くのを感じながら、真夏の空は少し眠ることにした。
 空は夢を見た。夢の中で、空は「ある」と「ない」の、その真ん中に立っていた。たった一つの季節だって、たくさんの「ある」を見て、記憶を満たし、空は生きた。それでもこの瞬間、自分は「ない」に近く居る気がした。「ある」ために自分は何か出来るだろうか? そんな事はずっと昔から単に知っていた。僕はただ誰かに話せばいいのだ。空だけのことを。それだけのことだ。