にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

鉄の女王

 サローラは間もなく王妃になるはずだった。城の庭を二人で歩きながら、自分が王になっていかにこの国を良くしてやるかと話すイェンス王子と微笑んで聞くサローラの仲は誰の目にも揺ぎ無く映ったし、事実それは正しかった。その証拠に二人は、イェンスが王位を継承するその日の結婚を固く誓い合っていた。
 やがて王の愚策が続くと戦況が悪化し、イェンス自らが戦地に赴くことになったのは、その王位継承の日のわずか七日前であった。当然、サローラは引き止めたかったに違いないが、次期王たる者の勤めというべきものを強く理解していたのだろう。必ず戻ってきて。そう約束を一つ増やして彼は隣国へ向かった。二人の間に結ばれた二つの約束は、事実上、その日を境に永遠に果たされる事は出来なくなった。多くの兵士が命を落とした。イェンスもまた進軍の途中、敵軍にばら撒かれた地雷を踏み、命を落とした。斥候がその報せを持ち帰ると、サローラは目に涙を湛えながらも、何も言わず、深く頷いたという。
 イェンスが王位を継ぐはずだった日、サローラは現王のもとへと行き言った。
「本日、イェンス王子との結婚式をとり行う事をお許し下さい」
 その時、国全体が王子を失った悲しみに暮れていた。誰一人としてサローラを笑う者は居なかった。王の心中にもそういった同情心が在ったには違いない。ただそれにも増して、王はサローラの目に深く据えられた誓いのような光を、どうしても見ぬ振りをする事が出来なかったと見える。もはや世界に魂を留めない、イェンスとサローラの結婚式が執り行われる事になったのだった。
 あろうことに、式はイェンスの死した戦地で行われた。二人を愛してやまなかった国民を始め多くの人が集まった。皆、少し離れた丘でサローラを見ていた。目にした誰もが夢のような光景だったと語ったものである。
 ドレスを纏い、一束のブーケを持ってサローラが歩く。人々が制止するのも聞かず、今や彼女の姿は地雷原の真中にある。何か祈るような気持ちでそれを遠巻きに眺めている人を背に、彼女は両手を広げ、何かを叫び誓った。もはや聞き取るには距離が遠すぎた。やがて彼女は振り向くと、後方へ遠くブーケを放り投げた。軽やかに弧を描き、地に落ちる。刹那、地面が光を放った。花が加えた僅かな力で地雷が爆発したのだった。轟音と残る耳鳴りはまるで死した者たちの悲しみの声のようだった。倒れこみながらも、その声の中からイェンスのものを探すみたいに、サローラはじっと耳を傾けていた。
 城へ帰ると、サローラの行動は早かった。この日、王となったイェンスの妻である自分が王妃であり、今この国の唯一の王族であると高らかに宣言したと思うと、あっという間に城内の者を纏め上げ、現王を処刑させた。全ての順番がちぐはぐだったが、皆、先のあの光景にどこか魂を奪われていたのかもしれない。暴動も無いまま、サローラはこの国の女王となった。サローラは足元に地雷が溢れるこの地に王都を移し、小さな城を建て、数々の悪い戦況を打破しながら、国土を拡げていった。誰一人サローラを突き動かすもの、欲する事は理解できなかったが、それでも国民は彼女を信じ、従った。あの結婚式の日以来、皆彼女が何かしらの奇跡を纏っているように思えてならなかったのだ。
 新たな王都は地雷原の真上にあるにも関わらず、それで死する者はほとんど居なかった。最初は恐れて過ごしていた人も、やがてその存在すら忘れるほどになった。サローラの言いつけにより、商団が遠出をする時だけは、先頭を彼女を乗せた馬車が先導し、その後に人々が着いていった。サローラの通る道だけは、何があっても絶対に爆発する事は無かったのだ。そのくせ、敵国の侵略に対して、地雷は容赦なく炎をあげた。いつしか難攻不落との噂が高まり、サローラはその後しばらく、鉄の女王と呼ばれる事となった。
 鉄は砕かれぬまま長い年月が過ぎた。ある時、いつものようにサローラが自ら商団を率いた帰り道、一人の男があった。一見してこの国の者では無いいでたちをしていて、普段ならば警戒を余儀なくする場面であったが、その男が若き日のイェンスにあまりに良く似ていたため彼女もそれを怠った。男は敵国のスパイだった。サローラの指揮力と、鉄壁にして魔法のような残り物の地雷原に八方手を失った隣の国が、暗殺を目論んで仕向けたのだった。全て順調に運び、サローラの暗殺に成功した後、目印に城で火を焚く手筈になっていた。
 男は言う。「我が国王は戦争を止め、今後は友好的な関係を築きたいと願っておられます。その証を今日は持ってまいりました。どうか城へお連れ頂きたい」
 兵が止めるのも聞かず、サローラはそれを承諾した。
 城へ着き、一通りのもてなしを済ませた後、サローラとイェンスに似た男は庭へ出た。星の下を何もせずただ歩く。かつての王都で、かつて二人がそうした事を、サローラは思い出さずにはいられなかった。気がつくと、彼女はこの初めて会った男にイェンスの話をしていた。
「あれは幸せっていうものだったんだわ。イェンスと会った時はいつも体が軽くなって、気がつくとわたしは、空に引っ張られたみたいに自然につま先で立っているのよ。それにとっても柔らかくなるの。心が、って言ったら変かしら? だってうまく言えないのに、そうとしか言えないのだもの。あの時わたしは、イェンスのためなら死んでもいいなんて思っていたっけ。きっと頭まで柔らかくなっちゃったのね。それが、今では鉄の女王。あの人が死んで、わたしは硬くなって、生きていたい執着が無くなったくせに、死ぬのは怖くなる一方」
「今は幸せではないのですか」立ち止まって男が言う。
「……ねえ、あなたは、体が軽くなったり、柔らかくなったと思うことはある? 死ぬのは怖い? それとも……」
 振り向いたサローラの胸に、鉄の刃が深く突き刺さった。柔らかな体を抜けた剣先から滴るものが、夜の闇で色が沈み、まるで石油か何かに見えたのだけれど、よく見ればそれは確かに赤い血なのだった。
 男は剣から手を抜くと、足早に立ち去ろうとしたが、まだ城内に残っていた地雷が彼を庭から出すことを許さなかった。それは一筋の煙となって立ち昇り、それを見た隣国の軍が鬨の声を上げる。まだ息の残っていたサローラは男の最期を見ていたが、悲しい顔をして死ぬまいとして天を見た。朝はまだ遠くにあったが、空は白んでいくように見えた。広い夜空に吸い込まれるこの感覚は、空に引っ張られるようで心地よい。魂が抜けて、私の体は軽くなっているのかしら。体を抜けて、魂は柔らかく昇るのかしら。
 その日、鉄の女王は死んだ。自らが流した涙にも決して錆びさせる事の無かった決意は国の百年を作り、柔らかく据えられた魂は国を永遠に語らせた。女王の死後攻め入ってきた敵軍は悉く魔法のような地雷に倒れ、同時に、この国に埋まっていた危険は全て一掃された。それゆえ、民は今も足元に怯える事無く暮らしている。中には、地雷はまだ埋まっているのだと言う人もいる。それでも我々が平穏な日々を送れるのは、つまり、空に居る、柔らかな微笑みを湛えた女王様のご加護なのだと。