にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

どちらかが夢を見る幸せを

 恐れられる男と見くびられる男がいた。恐れられる男――サベドは富、名声、権力、そして威厳までもを生まれながらにして持っていたようである。物心付いた頃から彼の周囲には殺気とも似た刺々しい雰囲気が漂っていて、それに触れる痛みから逃れるように人は一切近づいてこなかった。
 ある時、サベドの肩に赤い虫がとまった。刺されれば丸一日かけてゆっくりと死に至る毒虫である。すぐにわかったのは、これが初めてではないからだった。サベドに近寄れない人々がそれでも彼を殺そうと、蛇や蠍を放つのはよくある事なのだ。虫の針があとわずか伸びれば死が決まる状況の中、彼は虫を見据えて言った。
「お前は誰を殺そうとしているのかわかっているのか。わかっているならば刺すがいい」
 すると虫は急に萎縮したようにそわそわと落ち着かなく動き回り、やがて窓の外へ逃げていった。
 見くびられる男、イノックは日に何度も石を投げられ体中に痣を作っていた。何をしたわけでもないのに疎まれ、ついに今日まで自分と対等に話してくれた者は一人もいない。生まれた時から人は自分の周りに集まってきた。彼らは気がつくと束になり、断固として言い分を聞かない強い塊になって自分を攻撃した。今日もまた近寄ると売り物が腐るという理由で街を追われてここまで逃げてきたのだった。
 その時、一件の家の窓から赤い虫が飛んできてイノックを刺した。途端、イノックは喉に薄い網をかけられたように苦しくなった。彼はすぐに気づいた。自分は毒虫にやられたのだということ。そしてこの毒に血清は無いということも。順調に行っても死ぬまであと一日の猶予があったが、ショックのあまり、彼はその場で倒れ伏して動かなくなった。

***

 イノックが次に目を覚ましたのは豪邸のベッドの上だった。自分には永遠に縁が無さそうな空間だった。芸術性も値段も、この天井のように恐ろしく高いのだろうと思われた。ここに暮らす人間はさぞ幸福なことだろうと思わずにはいられなかった。
 当の主人が部屋に入ってきた瞬間、イノックは全てを理解した。主は街の全員が恐れる大富豪、サベドだった。彼が入ってくるとすぐさまイノックは逃げ出したい衝動にかられたが、状況から見て彼が助けてくれた事に間違いはなさそうである。イノックはなんとか出る声で礼を言った。サベドは何かこちらを伺うような様子を見せていたが、やがて「ああ」とだけ言って部屋の椅子に座り、本を読み始めた。
 イノックはその行動の意味を図りかねて戸惑った。サベドはふと座っただけだったかもしれないが、恐れ多さのためか、イノックは自分が気付かぬうちに何か無礼をしでかしたのでないかと気が気でなかった。思いつくままに言う。
「お礼はします。大した事は出来ないでしょうけれど」
「そんなものは要らない」
「あの、邪魔になるといけないので私はこれで」
「毒が回ってはいけない。しばらくじっとしているがいい」
 イノックは驚かざるを得なかった。これが皆が恐れるサベドの言葉だろうか? ひょっとしたら自分達は果てしない誤解をしているのではないか、と考えていると、サベドは慌てたような様子で話しかけてくる。
「気に障ることを言ったなら許せ。こうして人と話すのは初めてなものでね」
 イノックはそこで確信を持った。街の誰一人として、彼の本質の欠片にだってたどり着いていないのだと思った。雨雲が幾重にも連なったその更に上の空に、光を持て余した太陽が隠されている事に誰一人気付いていないのだ。そう考えた後イノックは今度こそ素直に感謝の言葉を述べる事が出来た。
「ありがとう」
 戸惑うようにサベドは本に視線を移し、「油断は禁物だぞ」と言った。伏せた顔が少し笑ったように見えた。
 実を言えばサベドだけでなく、イノックもまた人とまともに話したのは久しぶりだった。しかし、どちらかというとそれよりも、サベドという人間の明るい本当を発見した事に興奮して、イノックは彼が本を読むのを気にもとめず話しかけた。最初は答え終えるたびに本の視線を戻していたサベドだったが、やがて本を閉じて話に付き合ってくれた。それどころか自分からイノックに話しかけ、ほどなく二人はすっかり打ち解けたようになった。
「街の人たちはサベドを誤解している」
「誤解なんかじゃない。おれは人を弾き飛ばしてしまうんだ。イノック、おれはお前の誤解こそ解いてやりたい」
 二人の仲は人生の全てを取り戻すように急速に深まっていった。それはとても楽しい時間だった。やがてイノックは自分が涙を流している事に気がついた。同じくして、サベドの目にも。なぜこぼれた涙なのか、言葉にしかねていると、サベドが言う。
「イノック。おれはこの時を待っていたのかもしれない。何十年生きて、一度も訪れなかった瞬間だ。当たり前を望むことだってもう諦めていた。おれはいつの間にかこうなって――おれの周りから人がいなくなっていったのは、少なくともおれの力の範囲では、選ぶ余地の無いことだったんだ。豊かなことなんかひとつもなかった。だけどね、イノック。お前はおれに、こんな弱音だって言葉にさせてくれる。うまく言えないな……何しろ慣れていないから……ただ、やっぱり、おれはこの時を待っていたんだ。宝物みたいだ。今日までを生きて、お前と話せて本当によかった」
 泣き崩れてありがとうと繰り返す彼を見ながら、イノックは自分もだ、と返すのが精一杯だった。なぜなら、イノックも気付いてしまったからだ。
「本当に、この時が永遠に続けばいいのに」
 サベドは窓越しに天を見て叫ぶように言う。しかしその願いは聞き入れられる事は無いだろう。赤い虫の毒に血清は無く、丸一日の最高のひと時を終えて、自分は死んでいく。さあ、泣き止まなければいけない。まだまだ話すことはたくさんある。

***

「僕が死んだら、きっとお墓はこざっぱりとしたものなんだ。行きがけに小便をひっかけられるかもしれない。墓前で世間話をしながら、せいせいしたって言う人もいるかもしれない。でも君がくれる一輪の花のおかげで、僕は幸せに眠るんだろうな」
「おれが死んだらお墓は薄汚く賑やかだろうさ。知りもしない奴が、財産を目当てに山ほど花を捨てていくんだ。でもおれはその中できっと見分けられる。唯一優しく供えられた、お前がくれる一輪の花のおかげで、おれは幸せに眠るんだ」
 時間がいよいよ迫ってくると、二人は焦ることしないで、互いの発する音を全て刻み付けるようにゆっくりと残された時を楽しんだ。
「本当に君は馬鹿なことをした」
 イノックが虫に刺されているのを見た時、サベドは必死で毒を吸い出した。虫の毒は血や唾液に混じって回るから、そうしたら自分の命も失われる可能性があるが、そんな事は構っていられなかった。全てを吸い出せたのかは解らない。イノックの体内に回った量と、サベドの体内に入り込んだ量のどちらが多いのかははっきりしない。ただ、二人のうちどちらかが、間もなく命を終えるのは間違いなかった。
「どちらかが夢を見る幸せを」
 そう言って、二人は握手を交わす。長くは無かったが、ただ長いそれよりもずっと輝いた時間に感謝して手を握る。どちらかが夢を見る幸せを。握る力が少しずつ弱くなって、いつしかその手が滑り落ちる。夜は深く風も消え去って、夢を見るには調度良い。やがて彼はゆっくりと目を閉じた。