にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

万能の天才のアリバイ

「いい加減俺をネタに小説を書くのをやめてくれないか」
 私一人しか居ないはずのこの書斎で後ろから声をかけられながら、私はまたか、とため息をついた。振り返らなくても誰なのかはわかっていた。声による判断だけでなく、まずこんな事が可能な人物は一人しかいない。
「勝手に入るなと言ったはずだ」
 原稿を読まれたのはこれで何度目になるかはわからない。常に万全に対策は打ってあるはずなのに、今までそれが立派に機能した事は一度も無かった。
「あんな鍵で安心できるなんてお人好しだ」
 部屋を物色しながら彼が言った。あんな鍵というが、安い車なら二、三台買える程度のお金はつぎ込んである。私がその事を目一杯皮肉を込めて言うと、彼は全く悪びれも無く笑うのだった。
「無駄金だったな」
「どうせならその金で殺し屋を雇うんだった」
「俺を殺すために?」
 不可能だ、と言って彼はまた笑う。そう、それこそが問題なのだ、と私は思う。彼はこの世で一番の万能の天才だった。私が彼に何かをする事は――彼が拒む以上は全て不可能であり、逆に望むのであれば、彼にとって不可能な事は一切無いのだ。
 今回の侵入だって簡単だったのだろう。前に同じようなことがあった時、彼は鍵穴に針金を突っ込んですぐに鍵の構造を描ききってしまった。何でも針金がつっかえに当たるまでの時間と、当たった時の音の響きで形はわかるのだという。あの後すぐに鍵を取り替えたがやはり駄目だった。どうやったのかはわからないが、恐らく、彼を閉じ込める為の鍵はまだこの世界に存在しないのではないかと思う。
 こんなものは一例に過ぎない。音や感触だけでなく、彼はその他あらゆる感覚が群を抜いて鋭く、それでいて器用なくせに怪力で、子供のように無邪気に振舞ってはいても老獪な政治屋より打算的なのだった。そして幸か不幸か、彼のお気に入りの場所がなぜか我が家なのである。それも、ただ一番家が近いから、という理由で。
 どうせ今日も「間抜け面を拝む無駄な時間も長い人生には必要である」などといった適当な断りをつけてからかいにきたのだと思った。しかし、どうやら違うらしい。
「実は大変に困ったことになってね」
 その言葉は私に興味を抱かせるのに充分だった。凡人の言葉ならば面倒ごととして避けようものだろうが、彼は万能の天才であり、困るという動詞を、自身を主語として使っただけで大イベントである。
「ちょっと助けて欲しいわけだ」
 私が頷くのは早かった。実は小説家として身を立てていけるのは彼のおかげと言っても過言ではない。私は時折訪れる彼の天才ぶりを記録し、多少の調味料を加えて物語に起こす。それだけでヒーローの冒険譚として世の人は楽しんでくれるのだった(ただ、出版のたびに彼は渋い顔をしていたが)。つまり、この彼の困った出来事とやらに力を貸し、その終始を身近にしていれば、次回作のヒットは安泰、ということになる。失くしたお気に入りの万年筆の代わりだって買えるだろう。迷うはずもない。
「万能の天才も困ることがあるんだな?」
「もちろん、万能の天才ゆえ困っているんだ」
 彼は揺ぎ無い自信を見せた。その自信を脅かす事件とは何なのか? 彼が語った内容はこうである。
 ある小屋の中で一人の女が殺された。殺人の形跡はしっかりとしたもので、自殺では無いのは明白だった。小屋は内側から施錠されおり、出入り口は他に無い。中には被害者一人。つまり当人以外の出入りは不可能だった。警察の調査では、組織関連の報復の類ではないかと思われている。ただし、それは推測の域を出るものでは到底なかった。いずれにしろ、密室の説明が出来ない以上、事件は迷宮入りも止むを得ないものと思われていた。
 そしてここからがかの天才の困り事である。どのような人もあの密室で殺人を犯すことは出来ないが、たった一人可能だった人間がいる。それが、万能の天才である彼、と警察は疑い始めたらしい。何でも可能な彼のことだから、密室殺人とはいえ容易であろうと。加えて現場との距離がもっとも近いのが彼の家だったこともあり、警察の結論は早まった。今ではすっかり追われる身だという。
 なぜ逃げる必要があるのか、と問いたくもなったが、私は彼自身の能力を誰よりも間近で見ているのでそう気軽にも言えない。彼ならば、と思う人々の気持ちもわかるし、彼がそれを面倒だと思っていたとして何の嫌味もない。
「助けて欲しいんだ」彼は言う。しかし、全て聞き終えてなお、私には率直な疑問がある。「私にどうしろっていうんだ?」
 我ながら最もな質問であるように思われた。何しろ彼は万能の天才であり、私が出来ることは全て可能だし、私が考えつくことは全て考え付いているはずである。
「それを是非とも考えてみてくれ、と言っているんだよ」
 彼が言う。私は馬鹿にされるのを承知で、解決策を並べ立てた。「関係者全員を催眠術にかけるのは如何か」「可能だが、綻び易い小技はかえって危険である。不可」「偽造ビザで国を出て優雅に暮らせ」「可能だが、解決になっていない。不可」「いっそ捕まって脱獄してみるなどは」「上に同じ。不可」
 やはり、思いつかないか、と彼は言った。残念そうでもあると同時に、どこか私に同情するように見えるのがまた腹立たしい。
「君に思いつかず、私に思いつくものがあると期待したのか?」
 彼は「まさか」と言ってのける。では一体なぜ私に聞いたのか。
「お手上げだ。残念だが力になれないよ」
 私がそう告げると、彼はどうしたことか、本当に残念そうに俯いたのだった。
「それは、本当に残念なことだよ、君」
 しかしそう言われても無い知恵は絞れない。第一、私に一切の期待を持たずに、私に答えを要求した挙句、予想通り答えられないと残念がるとは、一体どういうつもりなのか。計りかねて私は尋ねた。
「こうなったら、君のその天才的な頭脳で、真犯人を捕まえて突き出せばいいじゃないか」
 彼は静かに笑い、そして帰った。
 私は、彼が帰る前に見せた顔がどうしても気になったのだと思う。今しがたの出来事を余さず紙に留め、それを見て小説を書いた。わずかな情報ばかりで先は見えないが、出来上がった時結末に何かが見えるような気がした。これまで何度と無く天才の冒険を書き上げてきたのだ。作品の中の彼を、現実に生きる彼と極限まで似せる。全てを書き終えた後、私は急いで準備をして家を出た。出来る限りを鞄に詰め込む。きっともう戻ってくることは無いだろうから。
 逃亡生活を続けながら、やっと彼を見つけた時には季節は四順ほどしていた。訪ねた私を見た天才の第一声は「久しぶり」と平凡なものだった。
「嵌めてくれたお礼をしにきた」
 聞いて、彼は「心外だ」という。もちろん、私が全て知ったことも、知った上でのことだろう。
「君は、自分がアリバイを作るのに世界一適さない人物だ。そのことは自分で一番よく知っているはずだ。最初から疑うべきだった。なぜ私にアリバイ作りの相談なんかをするのか」
「天才だって困ることはある」
「そうじゃない。君は天才であって、やはり困ることなんか一つも無かったのさ。あれは、そうだな、私にチャンスを与えに来た。そうだろ?」
 彼は答えない。
「君はアリバイを考える事など最初からしてないんだ。代わりに、アリバイを無意味なものにする事をした。つまり、自分以外が確実な犯人となるように仕向けた」
「だがあの辺は寂れた所だぜ」
「だから私だったんだろ。君の家から一番近いものな。とにかく、君は現場に誰かを示すわかりやすい証拠を置いてきた。例えば、私のお気に入りの万年筆とか。密室の作り方なんか君にとっては問題じゃないだろ。かくして私は追われる身になった。あの時君が私にチャンスをくれなかったら――困っていると嘯いてヒントをくれなかったら、私は今頃鉄格子の中だろうね」
 彼はしばらく黙っていた。私が彼の様子を観察する所を、逆に観察して楽しんでいるように。
「面白いね。小説にでも書いたらどうだい」
「もう書いた」
 私は原稿を彼に放り投げる。家を出るときに持ってきたものだ。彼は原稿をパラパラとめくると「なるほど良く出来ている」と言った。数秒の間だったが、読んだのだろう。
 俺を殺すかい? と彼は聞いた。殺すよ、と私は答える。
「万能の天才は殺されない」
 それは、確かな事だった。しかし。
「凡人には凡人の殺し方ってものがある。皮肉にも君のおかげで、私は小説家としての地位を手に入れた。その小説家が、例えばどうだろう、この君の犯罪をノンフィクション小説として発表したら?」
「なるほどな」
「君はもう自由に暴れられない。万能の力はもう揮えない。”万能の天才”は死ぬんだよ」
 私が言い終えると、彼は大声で笑い出した。あるいは無視されるかと思っていたので多少意外ではあった。
「脳ある鷹は爪を隠すっていう言葉を知っているか?」
「鷹を殺すのはいつだって無能な人間だ」
 なおも笑い声は響いた。まるで笑うこと自体を楽しむみたいに。私が帰ろうとすると、唐突に彼は言った。
「ところで、この小説に一つ文句を言いたい」
 参考にさせてもらおう、と私は答える。
「天才は困る事がない、この文はやめて欲しいな。天才だって困る。例えばそうだな。恋って奴はくせものだよ。密室で殺してしまうほど思い焦がれて追い詰められることもある」
 それが動機か。
「書き加えておくよ」と私は言って、部屋を去った。
 街を出るバスに乗りながら、私は新たにわかった天才の恋を小説に書き加えた。しかし、いくら慎重に彼の思いを表現しようとしても少しもうまくいかなかった。まるで彼自身が恋などしていないのではないかと思わざるを得なかった。こんな出来では誰もこいつをノンフィクションだと信じやしない。
 バスが街を出てまた次の街へと走る。そうやって私と彼の間には数え切れない境界が築かれていく。延々と遠ざかる景色を眺めながらペンを動かした。書き直すたび、別れ際の彼の言葉が、徹底的に小説のリアリティを失わせていった。私は万能の天才を殺す機会をついに失ったのだと知った。