にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

地球のビール

 お父さんはお酒が本当に大好きで、ぼくへのおみやげのアイスキャンディーやお母さんが頼んでいたレタスを買い忘れても、お酒を買い忘れることだけは絶対に無かったんだ。お母さんは「夕飯の予定が台無し!」なんて言っていたけど、ぼくはその事を少しも恨んじゃいなかった。一度や二度じゃなかったけど、それでもだ。だってお父さんはものすごく一生懸命働いているんだもの。ぼくなんか、学校へいって帰ってきたら、もうくたくた。なのに、お父さんはぼくが遊びにでかけて、帰ってきて宿題をして、お風呂まではいって、それでようやく帰ってくる。それもこれもみんな、ぼくとお母さんのためなんだ。だからお酒くらい飲ませてあげないとかわいそうだって、ぼくはいつでも思っていた。
 でもある時お母さんは、真っ赤な顔をしてお父さんからお酒を取り上げた。今思えばお母さんだってつらかったんだと思う。でもその時のぼくにはそれがわからなかったから、ぼくはお父さんに同情したっけ。大好きなものを取り上げられるのがつらいのは、宿題をやらないでいるとすぐ漫画を取り上げられるぼくはよく知っている。お母さんは目をぎらぎらさせて、お父さんのお酒がぎっしり入った棚をいつも見張るようになった。だからその時から、お父さんは一滴もお酒を飲むことはなくなった。くせみたいなもので、お父さんはよくお酒を買ってきてしまった。でもお母さんはすぐそれを見つけて、開かずの棚に固く固く閉じ込めてしまった。
 ぼくがひらめいたのはさらに何日か経ってからだった。ぼくはお母さんが買い物に行ったわずかな隙を見つけて、棚からお酒を一本持ち出した。そのまま近くの川まで走っていって、まるまる一本、流れる水の中に注ぎこんだ。すぐに注ぐとかたよりが出来てしまうから、なるべく少しずつしなきゃいけない。せいぜい、毎日一本ずつだろう。そう考えて、次の日も、また次の日もお酒を川に流した。お酒にはちょっと色がついていたけれど、川に流すと一瞬で薄まって透明になっていった。つまりは、まだまだ、ということだ。棚の中のお酒がなくなりそうなときは、ちょっと無理をして、自分のおこずかいでお酒を買って流した。もちろん買うときは、お父さんに頼まれて、と言った。幸いにして、お父さんもお母さんも棚の中身のことには気づかないようだった。
 その時ぼくはまだ小さかったから、水というものが、水よりもっと小さいものに分けられるなんて知らなかった。川の水が空にのぼって、それが雨になることは知っていたけど、水は水のままで世界中をまわるんだと思っていた。それが途中で空気になったり、花の葉っぱの一部になったり、そんなことは考えもしなかった。だからぼくはただ必死で川にお酒を流した。ぼくが流したたくさんのお酒が水にまじって、いつか世界中の水がお酒になるのを待っていた。海も、雨も、蛇口をひねってもお酒が出てくるのだ。そうすれば、お父さんはふさぎ込む理由は何にもなくなって、堂々とお酒が飲めるはずなのだ。
 一日でもはやくその日が来てほしかったから、ぼくは晴れでも雨でも、必ず川まで走っていった。世界中に水はよっぽど多いんだな、と思わずにはいられなかった。なぜって、これだけ流しても蛇口の水はちっとも苦くならないのだ。
 その日曜日もぼくは日課をこなそうと、棚のある部屋に行った。でもぼくはお酒を持ち出せなかった。そこでお父さんとお母さんがけんかをしていたからだ。お父さんは医者に行くと言っていたはずなので、どうやら病院から帰ってきてすぐ、お母さんとけんかになったのだ。びっくりしたことに、お母さんはぼろぼろ泣いていた。さらにびっくりしたことに、お父さんはお酒の棚を必死であけようとしていた。お母さんは逆に、棚をあけさせないように必死で押さえていた。「どうして我慢してくれないの」「まだ決まったわけじゃないじゃない」とお母さんは言っている。「どうせ死ぬんだ」「最後くらい飲ませてくれ」とお父さんは言っている。ぼくはというとそれどころではなかった。というのは、棚があけられてしまうんじゃないかと気が気でなかったからだ。棚の中にびっしり入っているはずのお酒が無くなっていたら、お父さんは悲しんでしまうだろう。思わずぼくは「やめて!」と叫んでいた。二人はやっとぼくに気づいたみたいで、けんかをやめてくれた。
「お父さんはね、もうお酒をのめないの」とお母さんは言った。ぼくに言っているようにも、お父さんに言っているようにも聞こえた。お父さんはそれを聞いて、ずっと下を向いていた。「もうお酒はのめないの」
 ぼくはすっかり、棚の中身が無くなってしまったことをいわれているんだと思った。だから、ごめんなさい、と言った。「棚のお酒を全部勝手にとったのはぼくです。ごめんなさい」お父さんとお母さんが違う話をしていたんだと気づいたときには遅かった。お父さんは血相をかえて棚をあけた。お母さんがとめるのも間に合わなかった。中にはビンに入ったお酒が二本だけしか残っていなかった。お父さんはがっくりとひざを床につけて、また静かに下だけを見つめた。
「何に使ったの?」
 怒られると思っていたけれど、お母さんは心配するようにぼくに聞いた。
「川に流したんだ」
「川だって?」
 ぼくは正直に答えることにした。お父さんの大好きなお酒を、もう一度飲ませてあげたかったこと。毎日ちょっとずつ、棚からお酒を持っていったこと。近くの川に流したこと。世界中の水をお酒に変えようという内緒だった計画。全部正直に話した。そして、心配しなくても、いまに蛇口からお酒がでてくるから、と言った。
 お父さんはもう顔をあげていて、しばらくじっとしていたけど、急に顔をしわくちゃにすると、ものすごい勢いで立ち上がった。そしてキッチンに行って、蛇口をめいっぱいひねって、コップいっぱいに水を注いでごくごく飲んだ。「うまいなあ、うまいなあ」と何度も言ってとにかく飲んだ。ぼくははじめて、お父さんが泣いているところを見た。ちょっとくらいはお酒になったんだろうか、とその時のぼくは思った。それが違ったんだ、ということが、今はわかる。あのとき、お父さんはただ、頑張ろうって思ったのだ。
 ぼくがあの計画の失敗に気づいたのは、それから月日がもっともっと流れてからだった。川にどんなにお酒を流しても、お酒の雨は降らない。よくよく考えれば、それがまかりとおるなら、今ごろ雨は子供のおしっこでいっぱいなはずだものね。お父さんはあの事件のあとずっと、蛇口の水を飲んでは「うまいなあ」と言っていたから、ぼくもよくよく気づけなかったのだった。
 学校から帰って宿題をしていると、病院に行っていたお父さんが帰ってきた。お父さんもお母さんもきらきら光るみたいに笑っていた。何でか、ぼくは「ありがとうな」とたくさん撫でてもらった。その日の夕飯には、グラスにほんのちょっとだけのお酒が振る舞われて、お父さんは嬉しそうに、じっくりと飲んでいた。ぼくはまだお酒を飲めない。年もそうだけど、何より苦いから。でも大人になってあの味がわかるようになったら、お父さんと一緒にお酒を飲みたい。