にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 進んでいく夢


 きっかけというものが本当にあるのか僕は疑わしく思っている。誰かが落ちたリンゴを見て何か閃いたとしても、それは培ってきた様々の出来事が、ようやく思いつくべき人に思いつかせただけなのだ。そこに唐突な発生があるわけじゃなく、きちんと連続性を持って、小さく震えながら土を押し、ようやく掘り起こされたに過ぎないのだ。そしてそれは、その瞬間まで無だったわけでもなく、見えようが見えまいが確実に近くにあったのだ。もしかしたら、割合くらいは量れるかもしれない。例えばリンカーンシャー州での苦い記憶が二パーセント、トリニティーカレッジでの青春が五パーセント、庭仕事をしているとき落ちたリンゴが十二パーセント、というように。それでも、これをグラフに表した時の最下部「その他」の欄には、一見関係無く見える幾千の事象や空間がひしめき、ひとつでも欠けていれば「その瞬間」は決して起こらなかっただろう。
 僕がこんなことを書こうと考えたのも、そういった莫大な理由の集大成なのだと思う。正確かはともかく、いくつかは覚えていて、ほとんどは覚えていない。全ての行いが未来に向けて有益である、と思ってはいない。ただ自分の何かがあの時変わってしまったとするならば、こうやって書くことで、あらゆる見えないものを探し、一つ一つ検証する以外にどんな方法もありはしなかった。その中に、たとえもう永遠に見つからないものが含まれていたとしても。
 思い出せる最も古い風景で、僕はパズル雑誌をめくっていた。暇つぶしに昼休みのうちに買って来たものだ。半端に解くのも気持ち悪かったのでその時はただ眺めていた。ちょうどその時に、僕の開いたページがよほど気になったと見えて、彼女が話しかけてきたのだった。仕事以外で話をするのは本当に久しぶりだった。とはいえ以前は親しかったというわけでもない。もともと必要でなかったものが、近頃より必要でなくなってきていた、ということだろう。
 僕が開いていたページには「占いパズル」が掲載されていた。パズルを解いた速度、誤答の数によって今月の運勢が変わる、というものだった。これを見てわざわざ彼女は僕に話しかけたのだ。
「パズルが得意な人ほど今月幸運だなんて不公平じゃない?」
 そうかもしれない、と僕は言ったと思う。あまり覚えていないのは、稀な経験だったので少々面食らっていたのだ。
「伝票をクリップで留める数で決まる運勢ならよかったのにね」
 当時僕は流通の事務の仕事をしていて、毎日何百、時には何千という伝票をクリップで留めていた。彼女はその事を言っているのだ。同期の彼女が任された仕事と対称に、単純作業に充てられてしまった自分に少なからずコンプレックスのあった僕は少しむっとして言った。
「嫌味を我慢する程恵まれる占いなら今日はラッキーデーなのに」
 彼女は「顔からして我慢できてないわよ」と笑った。
 その後も僕と彼女はしばらく取り留めの無い話をした。いつにない饒舌さに最初は戸惑ったけれど、恐らく今日は「仲良くなること」をようやく掘り起こせた日なのだ、と納得した。帰ってパズルを解いたら「同期と話がはずむ」という結果がでるかもしれない。話題は占い全般からその影響へ移り、出社前のテレビの一コーナーを経て、夢占いのことになった。
「随分昔から見ている、続きものの夢があるの」
 彼女がそんな話をしだしたのも、夢占いの話題が数パーセント影響しているに違いない。
「登場人物は私と、中学二年生のときの同じクラスの男の子二人だけ。最初に言っておくと、私はその人のこと好きでもなんでもないのよ。話したこともないし、本当、顔もよく思い出せないくらい。それでも夢に見たときはすぐ彼だと判断できるのね。名前さえ知らないのに」
 それが罪深いことであるように彼女は言う。
「最初は遠くから見ているだけだったの。でも日をあけてまたその夢を見るたび、私とその彼の距離は少しずつ近づいていく」
 僕が黙って聞いていると、昼休み終了を伝える音が事務所に響いた。彼女は少し迷うように目を下に向けた後、長い話になるけど聞いてもらいたいから、今度また話していいか、と言った。もちろん、と僕は答えた。午後もまた延々と伝票をクリップで留めながら、彼女の話を思い出していた。何か意を決して切り出したような具合だったので僕自身気になっていたのだ。まるで彼女にとってその話を聞いてもらうことが、とても重要な意味を持っている、というような。
 今日の出荷分と明日早朝の出荷分を全てクリップすると、僕は帰る支度をして会社を出た。入り口にはもう二時間ほど前に仕事を終えたはずの彼女が待っていた。さっきの話だけれど、できれば今日聞いて欲しい、と彼女は言った。二時間待ってもらったということもあり、僕はそれを承諾した。近くの喫茶店に入ると、彼女は続きを話し出した。
「進んでいく夢の話なんだけど」
 席に着いて早々だったので、予定は無いからゆっくり話していい、と僕は告げた。彼女は軽く頷いてすぐ次の言葉を組みにかかったようだった。何かに追われているようだ、と思わずにはいられなかった。
「その全然知りもしない同級生が、ちょっとずつ近づいてきているの。お喋りするようになって、今では手も繋ぐ。そうやって夢が進むに応じて、私たちの体も成長してるわけ。中学二年生から、高校生くらいになって、昨日キスの手前で目を覚ましたんだけれど、その時私は大学生だったわ。このまま夢が進んだら、私たちきっとセックスまで辿りつくかもしれない。ううん、そこが到達点じゃなくって、もっと先、結婚して、子供ができるかもしれない。ねえ、これって変よね? でも変なことだから、なおさらどうしようもないの。だって、こんなにも変な夢をずっと見続けて、それが意味の無いことだなんて考えられる?」
 彼女はもう泣き出しそうなほどに目を赤くしていた。
「本当に、彼のことは何にも知らないのよ。中学を卒業してからそれっきり、今どうしてるかだってもちろん、高校に行ったかどうかだって。女子に人気のあるタイプでもなかったし、ことさらに私の好みだったわけでもない。好きでも嫌いでもない。一体何なの? 何が私にこの夢を見させているんだと思う?」
 泣き出した彼女を見ながら僕はずっと考えていたが、何も答えられなかった。彼女を送り、家に帰る。その日は夢を見なかった。

***

 次の日、彼女は何事も無かったかのように出社した。昼休みになっても僕に何か話しかけてくるようなことは無く、また仕事以外の話をほとんどしない関係に僕らは戻った。夢の進行について彼女に聞くことはしなかった。その話は全て彼女に任せるべきで、僕から聞くべきものでは無いように思えたからだ。何度か気になってしまう事はあったが、彼女が話すことを望まないのであれば、頭の隅に追いやって擬似的に忘れてしまうことは、僕にはいくらでもできたのだ。
 二ヶ月が過ぎ、いつも通り会社へ行くと僕は彼女が辞めた事を知った。一身上の都合という話だった。どうしても引き止めたかったのだが、決意が固く、それもままならなかったらしい。彼女に代わって人が入ったのはさらに数ヵ月後だった。新しく入社した人は若く、僕がやっていた仕事はその人が引き継ぐことになった。引き継ぎが全て終わった後の僕がどうなるかはまだわからない。
 彼女がどうしているかは未だ耳にしない。スーパーなどへ行けばばったり会うこともあるだろうと思ったがそれもない。あるいは既に引っ越したのかもしれない。調べれば訪ねることもできただろうが、それは躊躇われた。いずれにしろ、見えたり、見えなかったりするたくさんの要因の緩やかな連続によって、僕たちは会えたり、会えなかったりするはずなのだ。足が運ぶのに任せて散歩をしながら、彼女のしかるべき場所が、とても安らかである様子を思い浮かべた。