にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 静かな人


 どう料理するかの計画も立てずパスタを茹で、その様子をぼんやりと見ていた時、ベルの音が一秒にも満たない程度に鳴り、それきり時計は動かなくなった。電池で動くのだけれど、取っ手のようにねじまきが付いている。本来無地のものだが、表面にはびっしりとメッセージが書き込まれ、文字盤の下に大きく「一人暮らし応援!」と添えてあった。上京する際、友人が贈ってくれたものだ。
 電池が切れたのかと思ってみてみると、三本ともきっちり、あるべき位置にしっかり嵌っていたので、やはりそうなのだろうと思う。エネルギーが切れる最後の一瞬に精一杯の抵抗をしたみたいに、確かに一瞬だけ音が鳴り、そして止まった。秒針の音なんか最初から聞こえていなかったはずなのに、部屋は急に静かになった。静かになると、私はどうしても立っていられなくなった。そのままベッドに突っ伏して泣ける限り泣いた。なぜ泣いたかと言われたらそれは、無性に泣きたくなったからだ。それ以外の理由を充てるのは難しい。今日に至るまで、泣きたくなるほど悲しいことなんていくらでもあったし、泣いてる場合じゃない意識や、涙を吹き飛ばせるくらいの明日への期待だって、自分にはたくさんあったはずだ。それでもその瞬間、私は泣くことをしなければならなかったように、不意に、否応無く泣いていた。
 早く泣きやまなければ、と思った。パスタが伸びる事を心配していたわけではない。そんな事は何の問題にもならない。ただ、泣きやまなければ、自分の涙がどんどん劣化していくのが怖かった。そして自分の事が、急に憎らしくなってしまうあの瞬間を、どうしても避けたかった。人前で泣いた記憶は多く頭に残っていて、しかもどれも顔を覆いたくなるようなものばかりなのだ。最初は突然自分を打ちのめした悲しみや怒りで泣き始める。でも、泣き続けているうちに、その行為がより打算的に、「あてつけ」のようになっていく。別にかまって欲しいわけではないと思う。そうであるなら泣かずに済むやりかたを私は知っている。でも打算的に泣いている時の私は、泣いているふりをしながら、実のところふりであることを気付かれないまま、泣いているところを見てもらいたくてそれをする。私はそれがたまらなく嫌だった。
 なのに、今回も私はその「あてつけ」をやっているのだ。そろそろ泣くのをやめてもいいんじゃないか、そんな自問をしっかりと意識しながら冷静に泣いている自分に気付く。なぜそうするかというと、ベッドの隣にいる「静かな人」に涙声を聞かせる為だ。「静かな人」は何も言わず私の頭を撫でてくれるだろう。そうされると、私はますます嘘を泣いてしまうだろうが、嘘を泣く私さえも撫でてくれる。時々現れてくれる「静かな人」はそんな心地よい、底無しの包容力を持っていた。一切の言葉を発さず、一切の痕跡を残さない。何か哲学的な思いで見つめた光のように、突然現れて、突然消えた。私はその人にだけ、安心して額を預けることができた。
 そうやって時折ふと泣き出してみては、「静かな人」に無言の慰めを貰っていた。このことを人に話したことは無い。そんな事を聞きたがる人間なんて、私には「静かな人」くらいしか思い浮かばない。それが多いのか少ないのかはわからないが、私にだって心を許せる友人が、少なくとも三人いる。例えば、あの時計をくれた友人がそうだ。でも、「静かな人」はそういった水準を遥かこえた所にいた。私の三人の友人がどれほど私を気にかけてくれても、「静かな人」のくれる安らぎには遥か及ばないのだ。
 ある時電車の中で、私はまた泣きたくなった時があった。大勢の前で泣くわけにはいかないと困ったり堪えたりしながら数粒涙を落とした頃、隣の席に「静かな人」が現れた。「静かな人」は人前なのでこっそりと、遠慮がちに私を慰めた。ほどなく、私の涙はすっかり引っ込んだ。目的地までまだしばらくあるので、私は少し眠らせてもらう、と「静かな人」に告げた。
 あと二駅という所で目が覚めると、目の前にはおかしな男が立っていた。コントラストの強いチェックの服を着て、一見して派手だというのもさることながら、彼はまるで漫画のように胴が短く、手足が長かった。その長い手足を軽く折りたたむようにして立っている。左手をあげていて、何かを掴むように拳を握っていた。私は「パントマイム」という単語が頭に浮かぶ。彼はきっと架空の吊革につかまっているのだ。
 最初、おかしな男は私の肩越しに景色を眺めているのだと思ったがどうやら違う。彼は私の隣の空席と、私とを交互に見ていた。もしかしたら、彼は磨きぬいた芸によって、「静かな人」が見えているのではないかと思った。私は興奮し、いっそ聞いてみようか口を開こうとした。しかし、それはおかしなその男本人によって遮られた。男は架空の吊革につかまっていない、空いた右手を私に突きつけて言った。
「その恋人は、時計と一緒に捨てなさい」
 男は見えない髭をなぞり、それがいい、と行ったきり電車を降りた。次の駅までの間、私はただ呆然と過ごした。その間、「静かな人」の方向は一度も見なかった。
 それから「静かな人」が現れた事は一度も無い。私は未だに理由もわからず泣き出すことがあった。心で自分への嫌味を言うこともある。恐らく何にも変わってない。
 今日もまた泣き続けると、カーテンの隙間に薄青い光が見え始めた。朝の音、というような静かさに耳を傾ける。その音は、「静かな人」に少し似ていた。予定があるわけではないけれど、会社を休むことにする。いつ頃かも忘れたが、偽者のねじまきのついた置時計の、裏面の蓋を失くした。むき出しの電池はそれでも絶え間なくエネルギーを送り、時計は動いている。

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