にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 シャンパーニュの素早い神様


 ドラピエはこの街が大好きで死ぬまで住みたいと思っていたが、それは「死ぬまで住める」という保証には何らなりはしないのだ。というのもこの街には古くから残酷な風習があって、資産の番付で最下位になったものから順に村八分されてしまうのである。この風習の効果のほどこそ不明ではあるけれど、事実この街は小さいまでも衰えを知らないまま長い。
 ドラピエはそんな風習による競合社会はともかく、気候、利便、全てにおいてここが見事に自分の生涯をまっとうするに適した、最高の街だと考えていた。問題があるとすればひとつ、自分には少しの商才もなくて、いつだって番付の最下位すれすれに位置しているということである。
 数日前までは、たとえ自分に才能がなかろうと、努力によってその問題は解決されるだろうと考えていた。今となってその考えは間違いだったと思う。頼りなくても何とか動いていた歯車に、いくつかのくるみが急に挟まったみたいに、自分の生活は音を立てたきりすっかり鈍く、進んでいるのか、戻っているのか、どうにも立ち直れない事態までになってしまった。
 ほころびを埋める作業が効率を落とし、落ちた効率からいっそうのほころびが生まれた。それでもドラピエはただ懸命に生活の修復を求めて働いた。しかしいつの間にか、本当に気がつけば、という程度の柔らかさでもって、彼は失業者の烙印を押されることとなった。ドラピエの奴がどうもやっちまったらしい、ならば、今回の番付は安心だな、と、そんな噂さえ街にでれば少なからず聞くことが出来た。これではいけない、と焦ったドラピエはギャンブルに手を染めたりもしたが、それらはなおのこと、次回の自分の村八分をより強固に確証付ける結果にしかならなかった。
 そして今、彼に残されたのは二本のシャンパンのみである。過去に父親に、本当にどうしようもなくなったら開けろ、と受け渡されたものである。そこにはシャンパーニュの素早い神様が住んでいるから、ひとつは勉強用に、もうひとつは実用に、と。それがどういう意味かはわからなかったが、普段から酒にまみれて言葉に意味を載せるくせがあったかもあやしい父だったので、それほど気に留めることもなく今まで倉庫に眠らせていたのだ。埃だらけで本当に飲めるのかも疑わしい。
 しかし、売れるものも売りつくしてしまったドラピエにとっては、もはやこれだけが最後の頼みであった。もちろん頼みだとは言っても、シャンパンをひとつふたつ開けた所でこの状況が変わるとは思えない。だから、せいぜい、嫌な事の一切を忘れ果てるくらい、美味しいシャンパンだったらいいな。そう思ってドラピエはコルクを飛ばした。
 小気味良い音が響くと、シャンパンは振っても居ないのに勢い良く噴き出した。噴き出しながら、その立ち上る液体の表面に女神のような美しい顔が映り、言う。
「そなたの願いをひとつだけかなえてしぷしゅう」
 液体を全て吐き、瓶は静かになった。一瞬不思議なものが見えた気がしたが本当に一瞬だったので呆然としてよくわからなかった。何かありがたいことを言っていた気がする。願いを叶えるだとかなんとか……。ためしにドラピエは叫んでみた。
「俺に財産と商才を!」
 しかし辺りは急に明るくなって「承知した」という声が聞こえるでもなく、静寂を保っている。それどころか玄関の外からひそひそ話すら聞こえてきそうな雰囲気すらある。
 ドラピエはふと父親の言っていた事を思い出した。シャンパーニュの素早い神様が住んでいる。ひとつは勉強用、もうひとつは実用に――。その言葉と今の不思議なひとときを参照し、彼は確信を得た。これはどうやら、本当に魔法のシャンパンかもしれない。そして、今の一本で俺はしかと学んだ。神様はあんまりに素早いから、俺もしっかりと、素早く願いを言わなければならない、そうすれば願いはきっと叶うだろうと。
 ドラピエは油を少し舐めて口のすべりを良くして、何度も呟いて確認した。俺に財産と商才を。俺に財産と商才を。
 全ての準備を万端に整えて、ドルピエは深呼吸をした。次にコルクを抜いた瞬間、自分の運命は恐らく決まるのだ。俺に財産と商才を。最後に一度だけ確認し、ドラピエはコルクを開けた。
 炭酸が部屋に放たれた瞬間、悲劇が起こった。勢い良く飛び出したコルクはそのまま彼の額に直撃した。
「いてえ!」
 その一言だけが部屋に響く。何度と無く練習した言葉は言えぬまま。一瞬、額を押さえていたドラピエだったが、すぐに気付いて顔をあげる。シャンパンは既に吐き尽されていた。額に充てた手はそのまま、力なくするすると降りてきて、顔全体を抑える形になった。もうだめだ。しかし、その時耳に響いてきたのである。あの女神の声だ。
「その願い、叶えてしんぜよう」
 何が起こったのかわからなかった。何らかの願いが聞き届けられたようではある。以来、女神の声が聞く事は無かった。

***

 その後彼は事業で驚くべき成功をあげ、番付は常に上位を保てる資産家となった。ドラピエとはどんな人なのか? と問われた際、街の人は「土壇場から永住権を獲得した奴さ」と口を揃えて答えた。人のうらやむ生活だって思いのままだろうと思われたドラピエだが、それでも豪遊せず貯金しているのは、いつか街を纏め上げ、居たい人にいつまでも居てもらえる、本当に住みよい街にしてやろうという目算があるからである。
 あのシャンパンの出来事は本当にあったことなのだろうか。シャンパーニュの素早い神様は本当に居て、「痛い」と「居たい」を聞き間違えてくれたのか、あるいは、最初から全部、疲れた自分の夢だったのか。今でも判断がつかない。それだから、ドラピエは成功の秘訣を聞かれた時、決まってこう答えることにしている。
シャンパンのせい、だよ」
 その言葉の本当の意味に気付く者など居なかったが、たんこぶ印の美味しいシャンパン、シャンパーニュの素早い神様を皆が笑顔で飲んでくれるので、ドラピエは何より、それが一番嬉しい。