にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 ねこクライム!


 良く晴れた七月の午後、団地の小さな公園で集まった猫たち目を細めてが見上げるのは、びっしりと各ベランダを埋め尽くした布団である。台風一過、ようやく布が健康的な日光を集められそうなそんな空の色に、住人達が一斉に布団を干し、所どころで叩いていた。洗濯や日干しの楽しさを目いっぱい感じられる光に、ベランダの人々の顔はほころんでいたが、一方、公園に集う猫たちの顔といったら皆緊張で強張っていた。
 暑い季節の、長い雨が続いた後の最初の晴れの日。しきたりによって、ねこクライムが行われる日である。
 今回のねこクライムはまさに天下分け目の一戦と前評判も騒がしく、ギャラリーも町内だけでない見知らぬ猫が多数混じっていた。それらが取り囲む二匹の猫、ミル、そしてこの町の長、ダオウは、体を伸ばしたり転がったりしている。人が見ればこの陽気を味わっているように映ったかもしれないが、彼らは綿密に準備運動をしているのだ。
 ふと、ギャラリーが静かになる。周りの猫も一歩下がり、二人を見つめた。団地妻たちがあらかた布団を干し終えたのだ。あとは303号室の一人がベランダから姿を消せば、それが合図となるだろう。猫たちは息を飲んだ。
「お前はまだ若い」
 ダオウがミルに言う。
「なぜ私が長でいるか、長でいられるのか。この勝負で見せてやろう」
 ねこクライムの勝者は新たな猫の長となる。この町が英雄不在と言われて長く、ようやく現れたのがダオウだった。彼は猫並外れたカリスマと判断力、そして驚くべき俊足で瞬く間に長へと登りつめ、その時代は長く続いた。猫たちはその生活に安心を得ていたが、不安があったのもまた事実だった。ダオウが去った後、この町はどうなってしまうのだろうか? 寄りかかるものが無くなった時、我々はいかにして生きていけば良いのだろうか。
 その不安が明確な形となったのが今回の勝負だった。長く挑戦者さえ居なかったねこクライムだったが、今回ついにミルという一匹の若者が名乗りをあげた。腕っ節は強いほうではない。ただ持ち前の優しさが、この町の猫たちに広がる漠然とした不安感を感じ取ったのだろう、意を決して立候補したのだった。
 ダオウは引き際を知らない男ではない。町の者が望んでいるのであれば、長を降りる気でいた。ただ、今がその時であるか、判断がつきかねていたに過ぎない。そんな思いの中、挑戦者が現れた――。まあいい、全ては。
「すべては、ねこクライムが決めることです」
 ミルが遅れて返事をする。
 その通り。ダオウは頷き、布団で埋め尽くされたマンションの一面を見上げる。ミルもまた、それに倣った。
 そして303号室の住人が――ベランダを去った。
 二匹は同時に後足に力を込め、飛んだ。目指すは屋上のみ。一階のベランダの布団にしがみ付き、洗濯ものへ、そして二階の布団へ。次々とジャンプしては登る。上を目指す。
 周囲の猫たちが驚きの顔を見せる。ここまで二匹のスピードはほとんど互角である。若いとは言え、あのダオウに勝てるほどの力量はあるまいと踏んでいた猫たちは皆一層目を丸くしなければならなかった。なおも二匹は登り続ける。
 このまま鼻先の勝負になるかと思われた。ミルはと言えば、もう体が限界に近づいていた。一瞬でも止まればもう少しだって登ることが出来なくなりそうだった。頭が白くなりそうになるのを振り払い、ただ上へ、それだけを考えて登る。最後の布団を登り、眼前に視界が開ける。ゴール――! すぐさま脇を見ると、ダオウは居ない。ミルは歓喜した。僕は、勝ったのだ!
 喜びも束の間、ミルはダオウがしきりに鳴き声をあげるのを聞いてベランダ側へと顔を寄せた。我々に話す声とは違う、人間たちに発する種類の鳴き声だ。見れば、ダオウは五階のベランダで声をあげていた。そして彼の目の前には、人間の赤ん坊が這っていた。

***

 ミルはもはや勝利の喜びに浸る事など出来なかった。あの時ダオウが鳴き声で赤ん坊と母親の注意を引いていなかったら、赤ん坊はあのまま柵の間から、団地の公園まで落ちていたかもしれない。このマンションの柵は幼児でも危ない程に隙間がある。ダオウは敏感に悲劇のもとを察知し、それを取り除いた。自分はと言えば、ただ上だけを目指しつき走っていただけだ。
「僕の、負けです、長ダオウ。猫長は――」
「猫長はお前だ、ミル」
 なぜなら、すべてはねこクライムが決めること、だからだ。そう言うようにダオウは真っ直ぐにこちらを見据え、きびすを返す。まるで、そのままどこかに消えてしまうのではないかという潔さで。
 まるで敵わないや、と思いながらも、ミルは猫長になる決意を固めつつあった。ダオウが築いたもの、居てくれた日々、それらはあまりに大きくて安らかだけれども、自分達も前を見なければならない。去り行くかつての猫長に、ミルは声をかける。
「まさか、どこか行っちゃうなんて言いませんよね!」
 ダオウは何も答えない。
「今まで頑張ってくれたぶん、ゆっくり休んで下さいよ。過ごしやすくしますよ、この町を。僕達が」
 ダオウは振り返って言った。
「早くも、貫禄が出てきたじゃないか、猫長」
 偉大なる猫長、ダオウのこれからの安らぎを願って。新たな猫長、ミルの就任を祝って。公園中に歓喜の声が響き渡った。今年のねこクライムはこれで幕を閉じる。太陽はまだ高くあったが、間もなく布団も仕舞われて行くはずだった。次に猫が屋上に上がる日は来年か、また来年か、いずれにしろ、選ばれた猫はそこでその年一番の日の光をいっぱいに浴びて、強い決意を胸に猫長を務めてくれる。なぜならこの町では、すべてはねこクライムが決めること、だからだ。

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