にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 間違いテレパシー


 時計を見ると面接は僅か二分で終わっていた。店長と名札をつけたその人物は、履歴書に一通り目を通したと思えば一言「うちはいらない」とだけ言った。慣れきった事でもあり、はい、とだけ答えて店を出て、手帳を開く。その店の名前の横に「×」と書き込むと、一行ずつ店名の書いてあるページの全てが「×」で埋まった事に気づく。うちはいらない。このページに書き込まれた全ての「×」に答えをくれたような言葉だ。
 こんなことがもう何年も続き、「×」が増えるたびに、自分の何かが磨り減っていくような思いをしていた。減りすぎて、今では目を細めなければ自分の姿など見えないのではないかと思えた。現に、周囲の人が自分を見る時はいつも目を細めている。笑っているせいかもしれないし、哀れんでいるせいかもしれないし、どっちもかもしれないけれど、いつもそうだった。そういった目で見られるたびに、より一層自分の身を見えにくく縮めなければならなかった。
 自分を悲劇的に演出する事だけはやめようと誓っていた彼も、この時ばかりは、わざと財布を開いて見た。中身が無いことくらい見なくてもわかっていたが、どうしても、わざと開かないわけにはいかなかった。それは決意の為だったのだと思う。あるはずの無い中身を確認すると彼は財布をしまい、鞄ごと川に放り投げた。決意が消えぬうちに、声に出してみる。「死のう」
 薬局に行き睡眠薬をいくつか盗んだ。市販のものは医師の処方するものよりずっと弱いと聞いたことがあるので、念のためだ。家に帰り、わずかに残ったウイスキーをコップに注ぐ。これから死ぬというのに、手順をしっかりと踏んでいる。そう考えると何故だか涙が出た。さらにどこまでも情けないことに、彼は錠剤を飲むのが苦手で、一粒ずつしか飲みこめ無い事に気がついた。仕方なしに、一錠ずつ流し込む。数錠と飲まないうちに、彼は眠りについた。

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「もしもし。やっぱり駄目だった。ぼくはあと少しだけ頑張ってみようと思う。もし、君がこれを聞いていたら、少しだけでいいので、アドバイスをください。ただ、どうにもならないのであれば、やっぱりぼくは、死んでしまおうと思います」

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 あの夢は何だったのだろう、と考える彼は、生きていた。死に損なったというより、生き残ったというより、ただ失敗した、という言葉が似合う。死に時すら無様に決め損ねて、そのことが一層、自分を死ぬべき人間に思わせる。事実、彼をこの世に繋ぎとめていたのは不器用な喉だった。そしてもう一つあるとすればそれは、単なる眠りから彼を呼び戻したあの声だった。その声は死のうと言っていた。けれど、アドバイスも求めていた。確かにはっきりと聞こえたその声はとても夢には思えなかったが、こうして失敗して生きている自分を見ると、それだってどうせ、情けない自分が見せた未練の夢のような気がして、それ以上考えることは止めた。
 決意を持った後には、一日にする事だって何も無い。起きたばかりだったが、彼は錠剤を飲み始めた。また失敗するかもしれない。でも何度も続ければ、腹だって減ってくるだろう。餓死してしまうとしたら、そっちでもいい。再び眠りにつく。今度は夢など見なければいい。

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 期待に反して、その日も声は聞こえてきた。咄嗟に目を覚ましてしまう。目を覚ましても、その声は鳴り続けている。彼はまた死に損なった事にも気づかず、その声を聞いた。
「もしもし。君が連絡をくれないので寂しいです。それとも、返事をしないこと、これが君の返事なのだろうか。わがままを言うようだけれど、それでも返事が欲しい。というのも、僕がこれまで生きてこれたのは、君の言葉によるところが大きいのです。死ぬ決意は、恥じない程度に、持っていると思います。でも、一言でも二言でも、何か、言ってください。待っています」
 もはやしっかりと覚醒した頭の中でも、その声は響いた。頭に声が縫い付けられるように、鮮明に響く。少しだけ、彼は、これが夢ではないという疑いを持ち始めていた。声が自分の創造物であるようにはどうしても思えなかったのだ。確かにいる誰かが、自分に語りかけているような、そういう気がしてならなかった。
 テーブルにはまだたくさんの睡眠薬と、ウイスキーがある。その日も彼は一錠ずつ喉の奥に流し込む。腹が鳴っているが、気にしないようにした。声のことだけが、少しだけ気になった。

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 次に目が覚めた時も、やっぱり声が聞こえてきた。アルコールのせいか、睡眠のせいか、頭が激しく痛む。その痛みとは独立したもののように、声ははっきりしていた。
「もしもし。君がどうしても連絡をくれないのは、何か意図しての事なのでしょうか? ぼくにしてみれば、ただ寂しいし、苦しい事です。昔ぼくが同じように、どうしても駄目、が何枚も何枚も積み重なって、重くて潰されそうになった時、君が連れて行ってくれた千菜見山から見える綺麗な星空を覚えていますか。最後、どうしてもお礼を言いたくて、何度もこんな声を送ってしまいました。これで最後にします。もし、聞こえていたら、今日の夜、この場所に来てください。ぼくはそこで死ぬつもりです」

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 聞き終わって、彼はこの声が、夢の類ではない事に確信を持った。これはどこかで迷う、誰かの声に違いない。テレパシーと呼ばれるものかもしれない。そういった能力を持つ人が、よりによって、自分の所へと「間違いテレパシー」を飛ばしてしまっているのだと。
 彼は千菜山などという場所は知らない。知らないのだから当然、人を連れて行ったことも無い。そうだとしたら、この声の主はまだ死ぬべきではないように思えた。最期の最期で勘違いをして、誰とも知れない人に来るはずのない返事を期待して、もの寂しげに死んでしまうのは、あんまりのように思えたのだ。
 外を見ると日が暮れ始めている。彼は急いで家を出た。顔も髪もくちゃくちゃだったが気にしている場合ではない。街角を走り、道行く人を捕まえては千菜見山の場所を尋ねた。誰に聞いてもそんな名前の山は知らないと言われた。近場のコンビニエンスストアで地図の索引を引いても見当たらない。なおも彼は走り、尋ね、調べた。それでも千菜見山は見つかる事はなく、太陽はすっかり山に隠れてしまった。祈る気持ちで、彼はその太陽が隠れた山の頂上目指して走った。

***

 山頂には誰の姿も無かった。ただ声の主が言うような、綺麗な星空だけがあった。冷たい風が吹き、この風の中ずっと千菜見山で待ち続ける声の持ち主を思った。間違いテレパシーはすっかりと途絶えている。声の主はまだ生きているのだろうか。気になって訊ねてみると、返事はすぐに届いた。
「生きているよ」
 良かった。安心して、声を送り返す。
「君はテレパシーを送る相手を間違ってるんだ。探してる人はきっと君が死ぬのを止めたくて、ずっと待ってる」
「間違っちゃいないよ。ぼくはずっと待っていた。君はまだ死ぬことはない」
 間違いテレパシーではなかったのか。そう思うと、急に肩の荷がおりた心地がする。体にはりついていた色々なものがはがれ、わかりやすい自分になったように思えた。
「そうとも。ぼくはずっと待っていた。ありもしない場所で、すぐ見えなくなるかもしれないものを見ながら、随分遠い時間から待っていた。君は来る。何かが遠い所から、どことも知れぬぼくの場所へ、もう何年も前から、来ては遠のいて、来ては遠のいてを繰り返しながら。すぐに到達してしまうには日が長いから、途中、何度も泣いてしまわなければならないだろう。それでも、幾度と泣き、幾度と無く、絶対に……」
 既にただの音のようになっている彼の声を遮って彼は聞いた。それは、もう大丈夫、という意味の、彼なりのテレパシーだった。
「千菜見山にいるんだね?」
「千菜見山にいる」
「星がたくさんある」
「うん。星がたくさんある」
「また、声を送っていいかな?」
「いつだって送るといい」
 聞いたことのある声が答えた。
「子機も番号もいらない。ただ君が伝えたくなったら届く」