にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 カタスミ


 医学や何かで説明などされちゃ堪らない。たぶん僕は人の目に映るそれよりずっと面倒な幽霊にとり憑かれている。その幽霊は僕から全ての気力を奪い、表面の「かわ」だけ残し、数歩先の時間に付いているはずの、ちっちゃな電灯という電灯のスイッチをポチポチ切ってしまう。残るのは現在の自分と幽霊の存在感だけだ。
 それだけじゃない。幽霊は時折、空間にありもしないものを発現させる。今日だって重い腰をようやく上げようとした瞬間、目の前に高々と壁をこしらえて僕を遮った。どこへも行かせてくれない。どこか行きたいと思っているはずだけれど、決して届かないように目印は全部消してくる。今みたいに道も同様に。
 幽霊のことは人に話してもまあ馬鹿にされるか蔑まれるだけで、結局僕は口を閉ざす。だって目に浮かぶようなのだ。「幽霊のせいで僕は駄目なんだ」「せいぜい幽霊を恨んで、いつか死ね!」そいつはとてもリアルだ。これも、幽霊が見せているんじゃないかと僕は思う。
 八方塞がりの僕が頼れるのは自分だけ。今まで何度奮起してきたか。その度にあいつは、僕にもっとも良い現在と、もっとも悪い未来の想像をさせるんだ。想像だから、目をつむっても無駄。試しに息を止めても無駄。無駄どころか、そのまま死んでしまいそうだ。そしたら僕までが幽霊になる。なるほど、思う壺ってやつだ!
 いつだったか、いつものように目の前に壁が現れた時(もちろん、幽霊が作った奴には違いない)、僕はじっと目をこらした。その日の僕はなぜかいつもよりずっと余裕があったんだ。少々のお金かもしれない。麻薬みたいな、素敵なストーリーに毒されていたかもわからない。一度だけ、じっと壁を見据えて、幽霊に若干の危機感を与える事が可能だった。
 僕はその時、見つけたのだった。今まで壁だと思っていたそれが、よくみれば本棚だったのだ。気づいてからじゃあ、よく見なくても充分本棚だった。慣れてくると、たった一つの棚を持った、気の利くおやじの書店のようにさえ見えた。気の利くおやじは光で僕に本を薦める。光が示したのは、えらく薄っぺらくてみすぼらしい本だった。
 表紙には、『昨日まで自分がどうやって生きていたのかをすっかり忘れてしまった人の日記』と書かれていた。僕はその本を手に取る前に、中身をすっかり言い当てる気でいた。きっと「幽霊」のハナシに違いない。これは僕が書くべき日記なのだと思った。
 中には見えない何者かと、自分の、壮絶な、でも端から見ればこっけいな戦いの物語があるのだろう。時々自分があんまりに負け続きで泣くし、怒るし、震えるけど、やっぱり変われない日々が痛切な物語があるのだろう。去年死んだ従兄弟の兄貴から、久しぶりの電話がかかってきて、なにを言われるでもないのに、なぜかとても謝りたくなって、情けないのに、それでもまだ変われないんだ。明日は目が覚めたときはじまって、昨日の時点ではまだ無かったなあ、と思い出すんだ。ホント、どうしょうもない本だ。
 だったら僕にも書ける。僕は書き足す資格がある。そういう思いだったか、僕はその薄い本を開いた。
 中は真っ白だった。日付だけが丁寧に毎日記されていた。各ページの最初には、何か書こうとして迷ったんだろう。エンピツを置いて、書き出しにふん切れ無かったみたいに、何個も点が打たれていた。次のページも、その次のページも、やっぱり同じに真っ白で、やっぱり何も書けないでいた跡があった。
 幽霊は黙っている。この日記を読む僕を緊張して見守っている。しっかりと意識できたまま、最後のページを開く。そこにはこう書かれている。
 「昨日にならないのは、人生の最期の一日だけ」
 幽霊は何も言わずに圧力をかけてくる。でも僕はそれを振り切って(はじめてのことだ)日記に書き足す言葉を考えた。この日記の書き手に、一行でも言葉を。さて何を書いたものだろう? 「明日、昨日を思い出せますように」? 「それとも、日記読んだよ」かな? どれなら幽霊が嫌がるものか。いろいろ考えはしたけれど、どれにも決めかねて結局ラストは簡単に書いた。
「気にすんな」
 なあ、幽霊。復唱。