にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 数分の芸術


 通路の両脇にはたくさんの額縁が並べられていた。それが奥の間まで続いていて、それぞれの額には絵が飾られている。とは言っても、それが本当に絵なのかは自信が持てなかった。何しろどれもこれも少々上質の紙に黒をただ塗りつぶしただけにしか見えないものだったからだ。
 全面真っ黒になるまで塗られたもの、中央にぐしゃぐしゃと筆を捏ねたもの、見える違いはせいぜい黒い部分の面積の差で、それが絵と呼べるものなのかは私にはわからなかった。ただ、これまでの人生で見てきた額縁には大概賞状か絵画が飾られていた中で、これに関してはおよそ賞状に見えなかったものだから、私は「絵」だと判断を下した。
 いや、「絵」で間違いないだろう。よく見れば額のすぐ下に小さく、タイトルのようなものが掲げられている。それぞれ「10分」「30分」「400分」とあった。
 もはや自分には何一つ理解の及ばない世界だったが、それについてはどんな心配も必要無かった。取材と言っても読者が興味を持つのはこの絵でなくて、エキセントリックと名高い芸術家本人であるはずだからだ。わからなかったら聞けば良いし、聞いて聞こえる彼の声こそが求められているのだ。読者はその声に従って、解釈と呼ばれる新たな妄想の、ちょっとした種が欲しいのだ。
 予備知識どころか、心構えだって要るかね、と思いながら扉を開ける。挨拶のタイミングは得られなかった。部屋には男が一人、腕時計を気にしながら、画用紙に向かって黒のクレヨンをひたすらこすりつけていた。こちらを気に留める様子もない。

***

 しょうもなく立ち尽くしていると、やがて男は「出来た!」と大声をあげ、「待たせたね!」と言った。どうやら私には気づいていたらしい。なおも腕時計を見ながら、ぴったりだ、としきりに頷いている。私は自己紹介のタイミングを計っていたが、この調子だとまた逃しそうである。やがて男は画用紙にサインを書き加え、別の紙にこう書いた。「5分」。続けてまた大声で言う。
「自己紹介はいらないよ。取材もだ。今日を持って私はいなくなり、新しい名前を探すだろうから」
 すらすらと言って男は立ち上がり、着ていた背広を脱ぐ。そして次は何を着ようかと部屋じゅうにかけられた色々な服を物色し始めた。私はこれを逃したらもう喋る機会を得られないのではないかという予感にかられ、自己紹介を省き、まず疑問を口にした。
「5分というタイトルの意味は何です?」
 男は両手に持ったカラフルな服を胸にあてて試しながら「時間だよ」と言う。「もちろん、書いた時間だ」
「では、廊下のあれも」
「そう。一目瞭然じゃないか? 黒く塗るのに、十分かけたもの、三十分かけたもの、それぞれ、飾った」
 相手が芸術家という点で構えてしまっていたのか、勝手にタイトルに何か深い意味があると思っていた私は脱力した。たったのそれだけ。私は尋ねる。
「それが芸術になるのですか?」
「なったじゃないか。君がここに来るまで、要するに、私が芸術家だという思い込みが未だ在った頃、その一時、わずかではあっても通路の絵は芸術だったはずだ」
 持つまいと思っていた心構えをしっかり持ってしまっていた事を指摘されたようで、私はぎくりとする。だというのに躊躇してしまった。彼の語る言葉は確実に、これまでの作品を愛した人への裏切りとなる。それを今メモし、誌面で伝えれば話題性は充分あるだろう。なのに、私は胸元のメモを取り出すのを待ってしまった。自分でも気づかないうちに、一切の邪魔なく彼の話を聞きたいと思ったのかもしれない。
「言っておくと、私は芸術家じゃない。芸術偽造屋だ。技術や感性をそれほど必要としない職業だ。私は何か、意味ありげに書くだけ。決まった評判が付いては幾度も名前を変えて、適当な図形を書いて、色のハーモニーをでっちあげては値段がつくのを待っている。面白いのは、数打ったら当たってしまう所だ。これまで違う名前で、かれこれ新人賞のようなものを五度取った。労力に見合う分のお金は少なくとも手に入って、時には一夜でそこら辺の人の数年分稼ぐぜ。「10分」、あれがいくらになったか知ってるか? タイトルそのまま、十分の労力だ。腕がちょっと疲れる程度で、私がいくら貰ったか想像つくかい? 別の名前で書いた私の他の絵を、大層に飾ってる美術館だってある。そこでは本物の芸術より、嘘が勝利したんだ。正確には、見る目が、嘘を勝利させた。歓喜したよ! 凡人と呼ばれた私にも、出る幕があったんだ! それも、天才と呼ばれる人々の隣に!」

 ***

 彼を傷つける一言を欲したのかもしれない。私は一通り喋り終えた彼に向かって言った。
「それは単なる詐欺だ」
 それは何ともならないだろう言葉に思えたが、男は思いの他しゅんとなって、弱々しく言い返すのだった。
「それはそうだ。もちろんそう。こんなもの、金持ちの道楽にもならない。ただもし何か届くものがあったとするならば、私のちっぽけな金への執着と、劣等を覆い隠す為必要な最低限の熱情がそうさせたんだ。そうじゃないと困る。影響はあるはずなんだ。どんなものにも、まず第一に、影響というべきものが。この世に不必要なものを発見した経験はある? 空虚な魂が創ったものは、やっぱり空虚なんだろうか?」
 見ると彼は涙を流していた。私は声をかけようとする。
「芸術に……」
「芸術に本物も偽者も無いと言うつもりならやめてくれ! 私は何一つわかっちゃいないんだから! 少なくとも私のは、絶対に違うものなんだから!」
 彼の目から涙が落ちて、「5分」の絵の中央の黒を滲ませた。私は新しい黒を加えたその絵が、次第に価値のあるものに見えてきた理由をどうやって説明しようものか悩んでいた。

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