にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

 旅行気分


 休日は家でじっとしている。でもじっとしているのは身体だけで、私の頭の中は常に積極的に行動していた。思い立ったらすぐに切符をとり、電車に乗り、飛行機に乗り、見知らぬ地へと降り立つ。脳内で繰り広げられるその未知なる世界の探求を、私は妄想旅行と呼んでいた。
 最近はある理由があって、やるにやれぬ事も多いので、もっぱら旅行(もちろん脳内で)ばかりしていた。今日だってそうだ。今私がいるのはイスタンブール。名前だけで現地の様子をちっとも知らない私は、頭部分が丸みを帯びている塔の先に避雷針がついているものや、車道を歩いている車より多い象を勝手に想像し、そこを観光していた。
 行きがけの屋台で、棒に巻きついたパンと肉に赤いソースがかかったものを買い食べた。はじめて食べる味だったが美味しかった。このように妄想旅行であれば食べ物だって食べ放題なのだ。私の中のイスタンブールはこれまで訪れたどの地よりも住みやすかった。今回は長い滞在になりそうだ。

***

「おはよう、今日も一応、リンゴ持ってきたわよ」
 その女性はベットに横たわる少女に向かって声をかけた。ベットの少女は答えない。目は虚ろに天井を向いたままで、時折口をもぐもぐと動かしたりしていたが、来客を気にかけるどころか、何一つ耳に入っていない様子だった。
「この間のぶんは悪くなっちゃうから持って帰るわね」
 かごのリンゴを持ってきたものと取り替えながらその女性は言った。顔は微笑んではいるが、寂しいことや悲しいことを堪えているのがありありと見て取れる。幾度となく繰り返している作業によって、自分自身を気丈に保つ事すら事務的にこなすほか無いような、そう思わせるような顔だった。
 実際、もう何日目になるかもわからない。突然意識だけが別世界に飛んでしまったように喋らなくなってしまった娘を見舞って、彼女は毎日リンゴを持ってきては、前日のリンゴを引き取っていた。娘があれほど大好きだったリンゴを今では見もしない。いつでもただ前方に目を向けながら、時々手足を動かすのみである。
 ふと、少女が砂をすくい上げるような形で手を差し出した。意識が戻った様子は無いが、母はもしやと思ってその両手にリンゴを載せてみた。
「あなたの好きなリンゴよ」
 すると少女は、なるほどこれがリンゴなのね、と言うふうに、何度も何度もそれを撫で回した。

***

 なるほどこれがポルメギ輝石なのね、と私は石を撫でた。ポルメギ輝石とは私の妄想イスタンブールの妄想観光所にある、妄想名物である。なんでも、この石を太陽に掲げれば、誰でも一つだけ願いを叶える事が出来るらしい。私は今回の旅行がえらく楽しかったので、つい「いつまでもイスタンブールに居られますように」と願いそうになった。もちろんその願いはすぐにかき消して別の何かを考えた。なぜって、私のお母さんときたら本当に心配性だからだ。休日のちょっとした外出でも、血相を変えてものすごく心配してくる。私がイスタンブールに長期滞在するなんて言い出したら、きっともう心配どころでは済まなくなってしまうに違いなかった。
 私は頭で何度も練り直して、ポルメギの神様がもっとも理解しやすそうな言い回しを探してから、それを願った。
 母に笑顔が戻りますように。

***

 先ほどまで、誰も居ないベッドに何度もリンゴを取っては置いてを繰り返していた女性が、ふと目覚めたように顔をあげた。
「これは驚いた」
 そう言ったのは傍らの医者である。女性は何がおきたか分からないという顔をしながら周囲を見回し、また医者を見た。
「過度な心配は、しばしば悲劇の妄想を生みます。妄想旅行は楽しいものだけにしておきましょう」
 そういい残して病室を出る医者を見やりながら、女性は夕食の準備がまだだった事に気がつき、急いで帰り支度を整えた。きっとお腹を空かせているだろう。今日は何を作ろうか。
 外へ出ると、もう日差しが一番強い時間はとうに過ぎているのに、もう何日も陽を浴びていないみたいに光が目に眩しかった。
 買い物を済ませ家に帰ると、娘が大層驚いた顔をして「おかあさん! おかあさん! よかった!」と突然抱きついてくるのだった。母はそんな娘の様子を見ながら「まるで子供みたいね」と言った。そして自分で、「子供みたい」という言い回しにはっとして思った。娘はもう立派に大人なのだ。自分もそれを認めているではないか。
「きっとポルメギ輝石のおかげなんだわ!」
 しきりに知らない石の名前を言う娘がおかしくて、母は久しぶりに目いっぱい笑った。

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