にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

死に顔は彫れない

 ヤエの父は彫り師だった。多少偏屈と言われる事はあったが、それなりに名声を手にしてうまくやっていた。しかしそれもすぐに昔の事となり、以来一人娘が身を売って小金を貰わなければ明日食い繋ぐ糧も無くなった。
 父が作り上げた人形を片端から燃やし始めたのは彼の母が死んだ日からである。死に際に彼の母は「お前が私の顔を彫ってくれるなら安心して死ねるね」と言った。父は「死に顔は彫れない」と答えた。母はほんの一時寂しそうな顔をしたのだと言う。そしてその一時の顔は消えずずっと父につきまとっていた。
 以来彫り物は完成しなくなった。父は無口になり、日毎に顔から生気を消していった。そんな彼を見て世の人は「彫り物」と蔑んだが、父は虚ろな目をしたまま「死に顔は彫れない」と呟くばかりだった。

***

 月だけが光り、目に映る景色は皆青白い。その様な夜でも眼前に立つそれは黒を保った。ただ闇に溶けると言うには濃くて、闇より浮き立つと言うには品が無い色味をしていたけれども、何より場違いな存在感がそれを闇と区切っていたように思える。何ぶんのんびりとした村だから、この様な夜更けに起きて外を歩き回る者など居るとは思えなかったのだ。帰路を急いでいたはずの足が止まったのはその為である。彼女はその顔を見た。焼けただれた右半分の頬よりもむしろ逆側を手で撫でる彼のしぐさを見て、ヤエは漸く「化け物だ」と思った。
「何に見える」とそれは問うた。その言葉はヤエの身を一層強ばらせる意外何事も為し得ぬ程に深く沈んだ声だった。「儂が何に見える」
 ばけもの。ヤエの口はそう動いたが喉元で詰まった様に声にならない。そもそも彼女自身、返事をしようという意識は一片だって無かったのである。ふと動いてしまっていた口に気づくと彼女はしまったと思った。何の根拠があったわけでも無いが、これ程の化け物であれば口の動きから言葉を察する事などは容易であろうと感じた為だ。
 すると案の定化け物は憤怒の形相となり今にも喰らい尽くさんとばかりに息を荒げるので、ヤエはとうとう「ひい」とだけ声を出してうずくまった。
 それきりだった。次に顔を上げた時、化け物は既に彼方へと歩き去っていた。月光も届かない闇へゆっくりと消えるその後ろ姿が見えた気がしたが定かでは無い。道に黒い何かがこびり付いて、丁度その闇の先へと伸びている。ヤエはふと、それを辿ってみようと思った。月は相変わらず煌々と美しかったが、ヤエに決断をさせたのはその魔力では無い。突如現れた化け物の、幻のように消えた後ろ姿が何処と無く寂しげに見えて仕方が無かったからだ。

***

 燃える薪とその脇で横たわる父を見た途端、どこを歩いてここへ来たかは忘れた。炎には既に莫大な数の彫り物がくべられていて、その作業に疲れたのか父はすっかり眠り込んでいた。ただ一つ、父の手にはあの化け物と瓜二つの彫り物が握られていた。ヤエはそれを父の手からむしり取って焼いた。これだけは焼いてしまわなければと思った。日頃から火の側にいる様になって火傷の絶えない父の顔をそっと指で歪めてみると、目尻に一層しわを寄せてまるで笑っている様だった。何年ぶりに見たとも知れない顔が懐かしかった。ヤエは自分がその笑顔を思い出せる事に驚いた。その事を早く話したくて父が目覚める迄じっと待った。
 夜が明けて火はいつの間にか消えている。化け物の彫り物は跡形もなくなった。触れもしない父の目尻にしわが寄ってまるで笑っているようである。