にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

反射する光

 カムジは普通にしていれば本当に普通の人間で友達くらいならいくらでも作る事が出来た。だからカムジを知らない人が校舎の窓ガラスごしに歩く彼女とそのとりまきの談笑する姿を見たって別段変わらない学生の一人としてしか映らなかったはずだ。でもキシオは少なからず――たった数ミリの距離を近づいているだけだとしても――彼女がある種特別であるという事を知っていたので、その日見たカムジの振る舞いに違和感を感じずにはいられなかった。雨の日だったので、薄暗い空気が彼女の笑顔を曇らせているのかも知れないと思ったが、すぐに考えなおす。それは別の違和感だった。例えば笑顔に天然のものと人工のものがあるとすれば、それはひどく人工的な笑みに見えて仕方が無かった。

***

 キシオが彼女の事を他人よりちょっとだけとは言っても知る事が出来たのは単なる奇跡でしかない。たまたまの上機嫌、ある一時だけの高揚感、ふと沸いて出たフラストレーション、どれほどの要因が重なったか推測さえ出来ないけれど、死ぬまで聞く事のないだろうと思われた彼女の本音がぽつりと口を出た。キシオは突如訪れた「口が開かれるべき時」にたまたま居たに過ぎなかった。
 だからキシオ自身も彼女と話した魅力的な時間をはっきりと記憶出来ていない。それは余りにも運命的に過ぎる出来事だった。授業の合間の微睡みからハッとしては、あの時話した全てが夢だったのではないか、と落ち着かない気持ちになった。眠りかけの耳に教師の言葉が全て音としてしか意味を為さないように、あの彼女の言葉もまた、目を開けたまま眠りと目覚めを行き来する自分の妄想や白昼夢の類では無いのかと何度も疑わなければならなかった。
「だから皆と一緒には決してトイレには行かない、と」
 あの時確か僕はそう言ったはずだ、と思い出す。多くの夢がそうであるように、物語は断片となって重要性に準じる事なくいつも曖昧な形で記憶に残っている。彼が思い出せるのはこのシーンだけだった。
「トイレだけじゃないわ。コンパクトも持ち歩かないし、顔を洗うのだって細心の注意を払ってる。体育祭前のダンスレッスンをさぼったのもそう」
「危険を少しでも排除するため?」
「そう。鏡に自分と自分以外の誰かが一緒に映り込む事――これは私にとって死と一緒なの。カウンセリングの先生は『誰もがどうでもいいルールを持っているものだ』って言ったわ。でも違うの。どうでもいいルールなんて無い。物心ついた時からこれは私にとって最も重要な事なのよ。昔から絶対な事なの」
「僕もルールを持ったほうがいいかな?」
「ああ……。私とあなたは似ているのかしら」
「どういう事?」
「私たち、鏡みたいね」

***

 窓越しに見た彼女の人工的な笑顔ももう二度と見る事が出来ない。校庭からぼんやりと眺めたカムジの顔に違和感を感じた次の日、カムジは鏡の中で死んだ。朝目覚めて新聞を取りに出た彼女の母が、庭先のイチョウに括り付けられたロープと、その先で揺れる彼女を見つけた。枝は折れずにしっかりと彼女の首を支えていた。根本には雨上がりできらきらと光る水たまりがあり、そこに映る少女の姿は綺麗だった。
 なぜカムジが死ななければならなかったのかはわからなかった。そしてそれは永久にわからない事だ。どんなに偶然が重なっても彼女の一層重くなった口は二度と開くことは無い。
 キシオが見た夢を全て書き留め始めたのはその日からである。夢は相変わらず曖昧なままだ。時折カムジの夢を見る事がある。夢の中の彼女の顔は日々変化して、今では生きていた彼女の顔を思い浮かべる事は出来ない。それでもキシオは全てを書き留め続けた。最近彼女の顔が自分に似てきたと感じる。