にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

1958年のマンチェスター公演

「ビル・ヘイリーの魅力は、もちろんその活力の凄まじさや体の反応無しに聞けないダンスビートの入れ込みは言うまでもなく――」
 マイクを向けられると男の言葉はとめどなかった。
「彼が普通の男だったという事――その一点に尽きる」
 用意があったわけではないのだろう、語る順番と言ったら無茶苦茶だったが、インタビュアーにしてみても彼の頭に出すべき言葉が無尽蔵に詰まっている事は容易に想像出来た。
「サイフに入れてあるんだ」
 少年のような目と、仕草で、要するに少年のように、彼は取り出す。
「58年のマンチェスター公演のチケットだ。僕の人生を変えた」

***

 彼は物事がドラマティカルに過ぎる形で進行する事を恐れていなかった。むしろ好んでいた傾向がある。それは決して特異な事ではなく、当時のイギリスのティーンエイジャー、ことにテディボーイズと呼ばれる人間にとってはごく当たり前の事だった。多くの若者がそうであったように彼もまた暴動を起こし、ビル・ヘイリーに熱狂し、激情にかられるままに結婚をした。
 それは劇的な日々だった。その間いつだって彼は、時に人種暴動に関わって流血しながらもなお、人生を噛みしめ、生命を実感する事が出来た。
 しかしある日突然それが出来なくなった。勤めていた彼の工場は潰れ、以来妻と良く喧嘩した。彼にはピーターという名の子が一人居たが、うってかわって貧しくなった今日彼の口数はますます少なくなった。突然の失職に、行き場の無い思いが鎖を巻いたように体中を重くした。その度に彼は酒を飲み、妻子にあたってはより一層立場を悪くしていた。
 それは劇的な日々だった。しかし彼はかつてのような充実感はかけらも得る事が出来なかった。職を失ってから一度も買い足していないウイスキーの最後のボトルをまるっきり飲んでしまったその夜、彼は廃工場の片隅で首を吊った。

***

「いらっしゃい。久しぶり」
 言う男に見覚えはない。そこはバーのようだった。行きつけでもないし、そもそも市内にあるのかも怪しい。古めかしい物々を巧みに空間を利用して配置している。気がつけばそれらは全てかつての流行の絵や我が家にあったのと同じ椅子、どれもが見たことのあるものだ。それでも彼にはここが異空間のように思えてならなかった。
「前に来た時は早すぎだったが、今なら仕方がない。さあ、宝物をお出し」
 マスター(と言って差し支えないだろう恰好をしている)が言う。今までに会った誰にも似ない顔、その不思議な存在感がこの場を一層不安定にしていると彼は思った。
「前に会った事が?」
「何かはあるだろう」
「宝物?」
「おい、会話がワンテンポずれてるぜ。会った事はある。あんたの一番大事なものを出す、それがここのルールだ」
 聞きながら彼はポケットにサイフが入っている事を確認する。良かった、無くなっていない。サイフには宝物が入れてあった。それは命より大事なものだ。
「残念だがこれを渡す事は出来ない。命より大事なんだ」
 ポケットを押えながらマスターに言う。
「おやおや、妻子じゃないのかい?」
 やれやれと肩をすくめながらマスターは続ける。
「命より大事かどうかなんて知らん。第一、あんたはもう死んでるんだ」
「俺が死んでる?」
「そうだ。持ってても仕方がないじゃないか。やれ、地獄の沙汰もナントカだって人は言うが、まさかあんた、ここまで来てもケチるのかい? さあ、お出し」
 確かに、彼には自分が首を吊った記憶があった。なるほど、自分は確かに死んだのだ。そう思えば彼には既に失うものは何も残っていない。マスターの言う事も最もに聞こえた。
「天国へよろしくたのむよ」
 彼は宝物を差し出した。
「そいつはあんた次第」
 58年のマンチェスター公演のチケット。彼にとってヒーローだったビル・ヘイリーの勇姿ももう見る事は出来ないのだ。
「何ぼんやりしてんだよ。入れよ、始まるぜ?」

***

「サンキュー、サンキューだみんな。今日もありがとう。若いのに、こんなオッサンの雑音を聞きに来てくれて」
 促されるままに扉を開けると、そこは音の嵐が渦巻いていた。歓声と、口笛と、拍手と、ステップの靴音、それでも響くビル・ヘイリーの歌声とダンスビート。何もかもがあの58年のマンチェスターのように、驚くのも束の間に興奮し、血が滾った。
「おや、ごきげんよう。おじさんよく来たね。ここにゃ若いのばかりだが、まあ楽しんでってくれ、青年」
 ビル・ヘイリーはそう言うと再び歌い出す。音が熱風になって会場を揺さぶっていく。何もかもがあの。そしてロックアラウンドザクロック。彼は夢中になった。踊りだす体を止める事が出来ず、歓声と、口笛と、拍手と、ステップの靴音の嵐を彼もまた大きくする一人となって。何もかもがあの。
 相変わらずの妙なカールを額に汗で貼り付けてビル・ヘイリーが叫ぶ。
「ヒーローは誰だった? ジェームズディーンか? それともエルヴィス? 誰でもいい。今日は俺がヒーローだろう!」

***

 彼は目を覚ますとまず果てしなく長いため息を吐いた。無音と白と匂いで自分が病院に居る事――戻ってきた事がすぐわかった。ベッドの横には妻と息子がいて、信じられないという顔をしていた。声も出せずに口を覆って首を振る妻を見て、自分の生還が奇跡的であったことを直感的に悟った。激しい後悔があった。これから死ぬまで彼女から今回の事についてどんな罵声を浴びせられようとかまわないと思った。ピーターが自分を澄んだ目で見つめていた。彼は息子への贖罪、その最もうまい方法に関しては全く思い浮かばなかった。
 彼はピーターに握手を求め、言った。
「俺はだいじな事はみんなビル・ヘイリーに教わった。あいつはすげえ奴だ」
 手を握りかえす彼の息子を見ながら、彼は涙が止まらなかった。
「……誰にだってヒーローがいるんだ。俺はビルだった。すげえんだ。なあピーター、ごめんよ。俺じゃなくてもいいんだ。でもお前にも……。ごめんよ、ピーター、良い子にしてたかい?」