にょこにょこ

嘘を書いた雑巾を配るページ

軌道上の睡眠

「昨日までの生きていた記憶をごっそり詰め込まれた偽物だと思うんだけど」
 唐突な彼の言葉に、彼の友人はそれでも慎重に返事をした。
「昔から君は居たよ?」
 目が泳ぐというのはこういう事を言うのだと思った。その表情と、軽い冗談を言う場面としては沈みすぎている声のトーンを察して、友人はその馬鹿らしい話に耳を傾けた。
「いやそいつが死んだかして、俺は偽物なんだけど、記憶と顔と性格が作り物なんだよ。で、それを判断する方法って無いかな?」
「そういう形跡でも見つけたの? 元の奴が死んだ証拠とか、自分が偽物である根拠とか」
「漠然と思うだけ」
「じゃあ無理だ。思うに、ずっと君のままだよ」
 だといいんだけど、と彼は言った。友人にしてみれば頭からよくわからない話だったが、だからこそ気のせいや考えすぎと言った類の、何事もない話のように思えた。
「シーソーが傾いたのかもしれない」
 つぶやく様に言った言葉の意味もわからなかった。

***

 彼が自身に違和感を感じ始めたのは、一週間前から一日前までの間だった。
 その間彼は長く眠り続けた。二十時間寝ては四時間食べ、また二十時間眠る。どれほど眠っても起きれば疲れていて、食べればすぐ眠くなる事が出来た。
 それだけ寝ても、ようやく夢を見たのはつい昨日の事だった。

***

「それはシーソーのようなものなんだ」
 と彼は言った。
 独り言なのか俺に言っているのか判断がつかないし、そいつは俺のように見えた。俺が良い服を着て、上手に髪を整えれば、そいつになるかもしれない。そいつは小ぎれいで粗が少ない俺のようだった。
 だとすればそいつは俺に話しかけていようがいまいが、やはり独り言を言っているのだ。
「それはシーソーのようなものなんだ。君は眠る。こんこんと止め処なく眠る事になる。一人で暮らしているから誰も起こさない。学校もサークルもあるけれど君は起きない。そして四時間だけ目覚める。その間お腹が空くし、ほんのちょっとだけ授業の事が気にかかるが、君はまた眠りにつく。眠り続けている間にも境界線がどんどん押し出されている。そして、シーソーだ。君は目覚めた朝、何かいつもと違うと感じるかもしれない。それはシーソーが傾いたんだ。君はいつも通り学校に行く事が出来るし、友人は久しぶりと声をかけてくるだろう。それでもごく稀に慣れない人がいるんだ。本当に少しだ。大抵の人は次に傾く日まで、それがいつだかはわからないんだが、何一つ思う事なく過ごしていくんだよ? で、君がもしその慣れない人だった場合は、思い出してみるんだ。……君は本当に目覚めているのかい?」

***

 その日学校から帰ると、彼はまた眠った。先週のように起きてすぐ寝る事は出来なかった。ひと度起きれば眠れなくなり、眠れたとしても何度も目覚めてしまった。それでも彼は必死で眠った。時計を意識する事が無かったので、彼にはそれが何日目に起こった事なのかはわからなかったが、一度だけまた夢の中であの男に会った。相変わらず二人は良く似ていた。夢の中の彼は今度は独り言を言うでもなく語りかけてくるでもなく、誘いに来た友人とさっさと遊びに行ってしまった。去り際に一度だけこっちを見た。夜中目が覚めると頭痛がしたが、それでも彼は眠り続けた。
 学校はさらにもう一週間休まなければならなかった。
 久々に学校へ行くと、そこにはいつも通りの風景があった。研究室で昼食を取り、友人と話す。二週間も休んだ事になるので、ゼミの教授に休んだ理由を適当に取り繕って説明した。
「ああ、別に良いよ、何となくわかるから」
 昼休み中に考えた理由はろくに聞かれなかった。
「シーソーが傾いたんです」
「やっぱり」
 教授は笑って頷いた。一週間前に感じたあの違和感はもう無かった。